「父とぶどうとプラモデル」


本日7時21分、父隆幸が逝去いたしました。 横浜の自宅で妹が看護していました。 父は点滴を受けるなら死んだほうがいいと言っており、看護師である妹も点滴は癌を促進させるだけだと最後の三週間は水分だけで命を繋いでいました。 奇しくも今日は一人娘の10歳の誕生日でした。 そのことを妹に電話で告げると、 泣きながら「きっと自分のことを忘れないようにと、この日を選んだと思う」 と。 父には孫が四人いますが、晩婚だった私の娘をことの他可愛がっていました。 初めて家族で横浜の自宅を訪れた時に広大な団地内でウロウロしていた私たちを外で待っていて、「よく来たな」と満面の笑顔だったことを思い出します。 娘の好きな物を電話で聞いて、ぶどうが好きだと知ると、団地内のスーパーで買ってきていました。ぶどうはパックのままで差し出され、洗わないのかと内心思いましたが、父に悪いのでそのまま食べました。神経質な妻はかなり無理しているだろうなと思いながら。 ある日父からぶどうが送られてきました。かなり高価なぶどうです。 その日、娘が何かのことで機嫌を悪くし、 「こんな物いらない!」 と言いました。 妻は泣きながら「貧乏な(当時は生活保護を受けていました)おじいちゃんがせっかく買ってきてくれたぶどうを何てこと言うの!」 とすごい剣幕で怒りました。 このことを思い出すたびに涙が出ます。 父は(自分の命は)今年の秋くらいだろうと言っていたそうですが、少し早くなりました。亡くなる二日前に妹からこんなメールが来ました。 「モルヒネ坐剤とセデーション用の坐剤もらう 入れてすぐ呼吸抑制来ても構わない その間手は握っておく それで良いよね?」 私はもちろん、と返信しました。 妹もかなり辛かったでしょう。 父は昔から客商売なのにお愛想もお世辞も言いませんでしたが、人の悪口や陰口も聞いたことがありません。妹によると、辛い闘病中にも一度も愚痴や弱音を吐いたことがなかったそうです。 私は親不孝な不肖の息子ですが、我が父ながら立派だったと思います。 最後にボードゲームの「ジークフリート」初代会長の生和浩一郎さんの言葉を付記いたします。 「あの頃の長野紙店は最先端の輸入プラモが置いてありました。一歩店内に入ると、まるで東京の店にいるような感じでしたね。日本で発売されてないアメリカのプラモ雑誌をおじさんは自分で翻訳していました。 最近有名な東京のボードゲーマーがうちの会の歴史は日本一古いと言ってましたが、創立年はジークフリートが古い。だから日本一はうちです。あの頃、休みになると長野紙店に行きました。いつも中高生や会社員の人たちが集まってボードゲームをしていました。島根大学生になってからも帰省するたびに行ってましたね。店の奥でワイワイやっているんです。別にプラモを買うわけではないんですよ。今でいう無料のボードゲームカフェみたいなもんです。 ある日おじさんがボードゲーム用にと大きなテーブルを買ってきたんです。それはさすがに悪いとみんなで100円づつ金を出しあって、おじさんに渡そうとしたんですが、「いいけん、このことは別だけん」と、どうしても受け取ってくれませんでした。 日本最古の歴史を持つボードゲームの会は山陰の田舎で生まれました。その発祥地は長野紙店です。このことは声を大にして言っておきたいですね」 お小遣いを握りしめて長野紙店にプラモを買いに来てくださった当時の小中高生や大学生や社会人の皆様、そしてボードゲーム仲間の皆様、父はとても幸せだったと思います。 ありがとうございました。

 

高校生の父と祖父と(冒頭の画像)

 

 

 回顧を兼ねた書評
 僕の初海外旅行は26歳の時のインドだった。
 当時往復チケットは年末料金だったので30万した(泣)。
 行く前は椎名誠の「わしもインドで考えた」を熟読。
 インドでは尻の毛まで抜かれるほどぼったくられ、下痢と発熱で散々だったけど、
 それからはリーマンパッカーとして主にアジアをふらふら。
 アフリカは遠すぎて行けなかった。新婚旅行もバックパックでバンコクと香港へ。
 香港では雑居房のチョンキンマンションで二泊し、妻はぐったりしていた。
 バンコクでは安宿と高級ホテルと泊まり歩き、マリオットのプールで
 溺死しそうになったのは今ではいい思い出だ(嘘)。
 旅も好きだが、旅行記も好きだ。
 この本は主にアフリカ旅行のエッセイだが、面白い。
 何よりも文章がうまい。
 奥さんとのなりそめを綴った「追いかけてバルセロナ」なんか疾走感があり、
 一気に読め、感動的でさえある。
 朝の通勤の地下鉄で読んでたけど、日本にいながら気持ちはバックパッカー。
 旅の本もいいけど、また出かけたいなあ。