ドリアン長野のオーストラリア旅行記 令和六年八月編









ケアンズへの道11 ドリアン長野 2024年8月2日

ツアーのお兄さんはバンを走らせながらいろいろと教えてくれる。

「オーストラリアは日本と同じ左側通行で右ハンドルです。左ハンドル車は輸入禁止ですから、日本人にとっては運転しやすいですね。
この道をまっすぐ行くとシドニーに着きます。世界一長い国道1号線です。ケアンズからシドニー間は2590キロメートルで、車で休まず走っても27時間かかります。エアーズロックまでだったら29時間かかります。
オーストラリアではキャンピングカーで海岸線を一周するのがものすごく流行ってます。
ほら、あの車は屋根にテントがありますが、あのテントに寝泊まりしながら旅をする人たちもたくさんいます」

「レンタカーで一周してみたいな」と娘に言うと、うなずく。
「誰が運転するの?」

「ママだな」(私はペーパードライバー)

それにしても、ツアーの女性の一人が彼の言葉に逐一「へえ〜」と反応するので彼もやりやすいだろう。いい感じである。

「このとうもろこし畑は日本の本州がすっぽり入るくらい続いてます」

これには私も思わず「へえ〜」。

目的の熱帯雨林が近づいてきた。

熱帯雨林で『アバター』の撮影をしたのは本当ですか」と聞いてみる。

「本当ですよ。今日は霧が出ているので『アバター』の雰囲気がより出てると思います」

スカイレールの始発駅はごった返していた。
四人一組で観覧車のようなスカイレールに乗り込む。

少し上昇してから下を見るとカンガルーの赤ちゃんがワラワラいた。幻視か?と思ったほど。
そしてスカイレールは六甲山のケーブルのごとく空中に達し、壮大な世界最古の熱帯雨林に360度囲まれた。スカイレールの鉄柱はヘリコプターで運び、周囲の土や植物は丁重に保管し、鉄柱を建ててから再び戻したという。

1億3000年前の白亜紀に形成された世界最古の熱帯雨林を現代のわれわれが現代の技術によって眺めているのだと思うと感激もひとしおである。

スカイレールはやがて標高の一番高いレッドピーク駅に到着。5分ほど歩いて別の駅に乗り換える。子どもの頃に図鑑で見たシダ類が生い茂っている。おお、白亜紀ジュラ紀!スケールが大き過ぎる。

乗り換えたスカイレールは徐々に下降していき、キュランダ村にあるレインフォレステーション駅に到着した。

駅にいるツアーのお兄さんと合流してアーミーダックツアーに参加する。

キュランダ村にはヒクイドリが生息しているのだが、「もし遭遇しても近寄らないでください」とお兄さん。大きなものは2メートル近くあるらしい。

「大柄な体躯に比して翼が小さく飛べないが、長距離なら時速50km/h程度で走ることが出来る他、非常に殺傷能力の高い爪を持つ。性格は臆病で気性が荒い。世界一危険な鳥ともいわれる。一方で、刷り込みが強く、1万8千年前には人類が飼っていたする説がある。日本では7つの動物園で飼育されている」

Wikipediaより

そんな怪鳥が目の前に現れたら恐ろしくて近寄るどころじゃないだろう。

ケアンズへの道12 ドリアン長野 2024年8月4日

アーミーダックは米軍の水陸両用車であり、第二次世界大戦で使われた。全長8メートル、50人ほど乗り込むことができる。男性が戦場に行ってしまったので工場で女性が作ったらしい。

河川、沼、海に入るとスクリューを稼働させる。 陸路はガタガタと揺れる。前に座っていた白人の御婦人がバナナを高々と挙げた。

「私、これからバナナ食べるわ」 とみんなに宣言していると思ったが(そんなわけねえだろ)、「これどなたの?」と聞いている。

あ、ビニール袋に入れていたバナナが振動で転がっていったのだ。お礼を言って受け取る。 今度は別の人がりんごを掲げた。

それも私のです。

ああ、恥ずかしい。あとでビニール袋を点検すると、ペットボトルのオレンジジュースが無くなっていた。それは発見できなかったんたろう。 沼を一周する。USJジョーズみたいだ。 上陸すると、ある場所に停止して老練という言葉がピッタリするようなドライバーが自生の植物を説明する。

アボリジニが悪魔のような、と恐れるギンピギンピ。 英語名ではスティンギング・ツリー、またはThe suicide plantという恐ろしい名前もある。見た目はどこにでもある葉っぱなのだが、刺毛に触わっただけでその毒性によって痛みは少なくても半年続くそうだ。

「葉や枝に触れると、中空の二酸化ケイ素の尖端を持つ毛が皮膚を突き刺す。この刺毛は忌まわしい程の苦痛を与える。アーニー・ライダー (Ernie Rider)は、1963年にこの植物の葉で顔と胴を負傷したが、その苦しみについて、彼は「2から3日間、その痛みはほぼ耐えられないほどのものであった。私は働くことも眠ることもできず、2週間かそれ以上もひどい痛みに襲われた。この苦痛は2年間もの間続き、冷たいシャワーを浴びた時には、いまだに毎回痛みに襲われる。これに匹敵するものはない。他の痛みと 比べても10倍以上は酷いものだ」と述べている」

Wikipediaより

アーニー・ライダーは植物学者

沖縄でツアーに参加した時に教えてもらったが、観葉植物として人気のクワズイモは本来食わずイモと書き、葉をかじると口中の痺れ、下痢、嘔吐などの食中毒症状が発症するそうだ。 しかしギンピギンピの毒性には到底敵わない。 とにかく世界一の猛毒であるらしい。

ジャングルツアーが終わるとお兄さんが 「いろいろ教わったので、これでジャングルでも生き延びれますね」 と言うと、皆んな笑う。

事前にお兄さんが娘に「コアラを抱っこしたいですか」と聞いていたが、0.5秒で「はい!」

実は動物保護の観点からオーストラリア政府は来年にはコアラの抱っこを禁止する動きがあり、今年が最後だろうという。

土産物売り場の奥にあるドアを開けると、そこはコアラとの抱っこ場所。なんだか秘密基地みたいだ。

コアラにストレスを与えないように抱き方をオーストラリア人スタッフがレクチャー。 娘が抱っこしようとするが、なぜかうまくいかない。コアラは6キロあるので娘には重いと判断したのだろう。お兄さんが「お父さんが代わりに抱っこしてください」。

仕方なく抱っこする。結構ケモノ臭いし、Tシャツに爪を立てるので痛い。娘がコアラの背中を撫でるというポーズで写真。一生に一度の体験は私が主役になってしまった。

あとで娘が言うには「重くなかったで。コアラが抱っこを嫌がってん」

写真は娘が暗い顔で背中を撫でている。 さぞかし気落ちしたのではないかと思ったが、

「あそこでもし私がコアラを落としてたら国際問題になってたで」

と笑っていた。

ケアンズへの道13 ドリアン長野 2024年8月6日

キュランダ村の繁華街に送ってもらい、そこでツアーは解散。お兄さん、ありがとうございました!

キュランダ鉄道が出発する2時までは自由行動だ。他のツアー客は3時半に乗るらしい。
その列車にはゴールドクラスという客車が一両だけあって、座席も豪華、軽食や飲み物がビュッフェになっている。
せっかくならと最初はゴールドクラスを予約していたが、2時発にはなかった。
3時半発を取りましょうか、と言われたが断った(実質ケアンズにいられるのは今日だけなので早く戻りたかった)。

先ほどから雨かと思えば晴天になり、と天候が目まぐるしく変わる。

繁華街には原宿かと思うほどレストランやマーケット、土産物店などがひしめき、観光客で賑わっていた。
まずお兄さんに教えてもらったヒッピーが集まってできたという場所に行ってみる。
「ヒッピーって何?」
そうか、Z世代にはわからないか。
窪地にあるので階段で降りていく。なるほど、と思う。
アクセサリー店や占い館、茶店などが狭い路地に櫛比し、独特の雰囲気を醸し出している。
入り口に「bizarre」という看板があったが、それがピッタリだ。
カトマンズにこのような地区があったのを思い出す。

空腹だったので海苔巻きの店に入った。若い日本人夫婦がやっていて旦那さんは調理、奥様は販売だ。
どういう経緯でここにお店を持ったのか気になる。

ジンジャービールを買ってみた。ビールといってもノンアルで生姜がジンジャーエールより主張しているのが美味しい。

お兄さんに、「そこに美味しいアイスクリーム屋さんがあります。手であるサインをすると、シングルをダブルにしてくれます。場所はあえて言いません。探してみてください」と言われていたが、列車の発車時間が気になり、早々に街を出た。

少し歩くとこじんまりとした教会があった。娘は関心があるようで、入ってみたいと言う。 ドアは開け放れていて、観光客が長椅子に座って休憩している。ステンドグラスが美しい、この木造教会は100年以上の歴史を持つ英国国教会だそうだ。しばし静寂に浸る。
キュランダ高原鉄道駅はとても趣きのある駅舎だ。観葉植物の鉢植えが空間を埋めるように置いてあり、売店も喫茶室もひなびたヨーロッパの雰囲気がする。
ホームには駅舎を挟んで二両の列車が止まっているが単線だ。
列車もホグワース特急を思い出すようなレトロな感じ。
早く着き過ぎたので娘にアイスを買ってベンチに座る。

アイスを食べながら娘が昨日から何度も言っている言葉がまた出た。
「日本に帰りたくない」

ケアンズへの道14 ドリアン長野 2024年8月11日

キュランダ鉄道は改札もなく、検札もない。お兄さんに渡されたチケットは記念乗車券みたいなものだ。

早めに客車に乗り込む。客車もレトロ感満載。ありがたいことにウォーターサーバーが置いてあった。チケットに書いてある番号を探して、三人掛けの赤いビニールの座席に娘と向かい合わせに座る(われわれの座席の横には人が座ってこなかった)。

英語のアナウンスが聞こえてきたが、娘は「しゃべっているの日本人やで」と言う。

しばらくして赤い制服を着た中年の日本人(多分)女性が乗車人数の確認に来た。
キュランダ鉄道で日本人(多分)が働いていることが不思議に思える。

汽笛が鳴り、列車はゆっくりと動き出した。
いつの間にか駅員や売店の人が出てきて手を振っている。
駅舎が見えなくなっても速度は速くない。なにせケアンズ駅まで32キロを2時間弱で結ぶのだ。

車窓からしばらく熱帯雨林を眺めていると、バロンフォールズ駅に停まった。ここでは滝が眺められるので10分間の停車だ。みんなこぞって車外に出る。こんなに乗っていたのかと驚くほどの人数である。

遠くに見えるバロン滝は壮大だ。鉄柵にもたれて見ていると、隣りにいた白人男性が「ほら」と鉄柵を指差す。そこには半透明の緑アリが群がっていた。
グリーンアントと呼ばれるアボリジニが食用とするアリだ。アスコルビン酸が豊富で爽やかな酸味があるという。食べてみようと思ったが、なんだかかわいそうでやめておいた。もう一種類の赤っぽいアリはハニーアントと言って、甘さの中に酸っぱさが混じって絶品らしい。

すぐそばの小高い丘が展望台のようになっていて、みんなそこで写真を撮っている。様々な国の人が滝を眺めていたり、家族や友人と写真を撮っている中にいると、ほのぼのとした感情になる。

汽笛が鳴った。乗車の合図だ。
展望台にいた人たちも急いで列車に乗る。

またしばらくすると大雨になった。並行する道路をヘルメットをかぶった若者がずぶ濡れになって自転車をこいでいる。窓側の乗客が「がんばれ」と応援する。若者は必死にペダルを踏んでいたが、ついに抜き去られてしまった。

車窓を開けていたので、通路は雨でびしょびしょになってしまった。日本だったら乗客が大慌てで窓を閉めるだろう。オーストラリア人(観光列車だからそうでない人もいるだろうけど)のおおらかさを感じ、いいなあ、と思う。

風景を眺めていると、突然30匹ほどのカンガルーの赤ちゃんが線路わきの芝生にいるのが視界に入った。あっ、と思う間もなく視界から消えていった。二度目の幻視か(娘は寝てた)。

列車は二番目の停車駅、フレッシュウォーター駅に到着。ここで大勢の人が降りていった。
名前の由来は鉄道工事の人たちがここで真水を飲んだからだそうだ。この駅は車両を改造したカフェがあり、人気らしい。

あと少しで終着駅のケアンズに到着するという時に列車が緊急停止した。

「あれっ?」

ケアンズへの道15 ドリアン長野 2024年8月14日

くだんの女性車掌が慌てたように客車に入ってきて、「大丈夫です。踏切に男性が侵入してきただけですから」と言ったが、なぜかこの時、彼女が英語を話したのか日本語を話したのか覚えていない。

ちょうどその時、車窓の目の前で50代くらいの半裸の男性が「俺は何にもしてねえからな!」と怒鳴りながら向こうの方に去っていくのが見えた。右手に紙袋を握っている。オーストラリアでは公共の場での飲酒は禁止されているので酒瓶に違いない。

ケアンズ駅には4時に着いた。
ホテルのチェックインが遅くなったのでゲストハウスから「レセプションは閉まるので、外にあるセーフティボックスから部屋のキーを取ってください。キーにはあなたの名前とルームナンバーを付けています。ゲートの暗証番号は⚪︎⚪︎⚪︎、Wi-Fiは⚪︎⚪︎⚪︎、です」というメールがきていた。

ボックスを開けると部屋番号が書かれた紙がキーに結わえてある。その部屋を探すのだが、わからなくてウロウロする。二階の共用スペースにいたヤングカップルに聞くと、女性が男性に「探してあげなさいよ」。

男性は二つ返事で探してくれる。彼も少し迷っていたが、無事に見つかった。
丁重にお礼を言う。

ダブルベッドとシングルベッドがあり、テレビと冷蔵庫は無し。エアコンは1時間1ドル。
ここも中庭にプールがあり、バルコニーはないが、東南アジアのリゾートのような環境だ。
日本円で一泊一万円弱。

すぐに目の前にあるケアンズ駅を通ってwoolworthsへ。5分で行ける。
ケアンズにおけるwoolworthsは地方都市のイオンみたいなものだ。二日間で何回行ったことか。

エスプラネードに行く途中のホテル(?)の芝生でコンサートをやっていることがあるのだが、その方面から花火があがった。急いで近づいてみたが、終わってしまった。何だったのだろう。

ケアンズ最後の夕食はオージービーフということで地元で人気のステーキハウスに行く。
まだ夕方だが、店内は満席でテラス席に案内される。案内してくれたのは日本人女性である。

付け合わせを二種類選ぶスタイルでマッシュッドポテトとサラダをチョイス。ステーキは少し硬かったが、その方が噛みごたえがあって好きだ。娘は最後の乳歯が生え変わる時で、歯がグラグラして全部食べられないので残りを私が食べた。さすがに腹パンだ。
手を挙げてチェック。

「娘さんと仲がいいですね」
「いいですよ」
「私は父とは反抗ばっかりしていたので旅行なんて考えられないです。反抗することがカッコいいと思ってましたから」
自分もパンク世代なのでよくわかります。
「私は29なんですがケアンズに来て三年、ここで働き始めて二年になります」
「生まれはどちらですか」
「新潟です」
「どちらからですか」
「大阪です」
関西空港ですね。また来てくださいね」
気になってあとでその店の口コミをネットで読んでみた。そこには「日本人女性が親切に教えてくれた」と多くの書き込みがあったが、中でも印象的だったのは「日本人女性が一生懸命テキパキと働いていて輝いていました。私の娘も彼女のように輝いてほしいと思いました」
という書き込みだった。
彼女の御尊父はこの書き込みを読まれたのだろうか。読んでいてほしいと切望する。

ケアンズに行ったことのある人なら知っているだろう。アメリカのスラングでなぜか「クズ野郎」という名のステーキハウスだ。

ケアンズへの道16 2024年8月20日

われわれは喧騒を抜けてエスプラネード方面に歩いていった。公園を通って海沿いを歩く。誰もが使用可能の木製の椅子とテーブルがあり、家族らしき人たちが食事している。楽しそうだ。
海岸には船舶が停泊している。しばらく歩くとホテルもカフェもなく、人もいなくなる。辺りも暗い。
空を見上げる。南半球の星が満天に輝いているが、どれがどの星座なのか。

「二日は短いよなあ。担任の先生にオーストラリアに二日間行くって言ったら驚いてた」

「あと一日あったらどこに行きたい?」

グレートバリアリーフ

「へえ〜、意外やな」

「わたし、このまま行方不明になりたいわ。そんでオーストラリアに住むねん」

「どうやって暮らすん?ホームレスか」

「家族でオーストラリアに引っ越したら?それでわたしはインターナショナルスクールに通う」

「う〜ん、友だちと別れないとあかんで。何でそんなにオーストラリアが気に入ったん?」

「アジア人は不機嫌な人が多いけど、オーストラリア人はおおらかで陽キャ、人の目を気にしないし、店の人と客が対等。日本はそうじゃない。自由な感じがする」

アジア人が不機嫌というのは置いといて、そこまでオーストラリアが気に入ってくれたら高いお金を払って来た甲斐があった。

娘と話しているとステーキハウスの女性が言ったことを思い出す。

娘は今中1だけど、もう少しすれば父親と歩くのを嫌がるだろう。家族より友だちといる方を好むだろう。それでいい。親の役目は子どもを自立させることだ。

娘は言いたいことをズバズバ言う。怒るときは烈火のごとく怒る。その時に思わずニヤッとすると「笑うな!」とますます怒るが、自分の父のことを思い出して「遠慮なしに何でも言える関係」を嬉しく思っているのだ。
この前は怒って胸ぐらを掴まれたが、「おお、いいぞ」と内心思っていた。

私の父は厳しい人で手も出た。近寄りがたいところがあり、そんな父を私は小さい頃から敬遠していた。高校を卒業して生家を出ると嬉しくて仕方がなかった。会社に勤め、休みになるとアジアをほっつき歩いて、何年も帰らなかった。

娘が保育園の時だった。その頃娘は情緒不安定でイライラしていることが多く、些細なことで妻を非難して腹立ちまぎれに蹴ったことがあった。

私はカッとなって娘を平手打ちした。それでも反省しない娘を両手で掴み、寝室のベッドに押し倒してまた叩いた。娘はギャンギャン泣いた。

その時の私は理性を無くしていた。その時のことを思い出すと胸がキリキリと痛む。張られた娘の頰より、張った右手の方が痛いというのは本当だ。

だからその時、もう二度と体罰はしないと誓った。

私が30代の頃だったか。久しぶりに帰省したのだが、帰る時に父が「この家はお前の家だからいつでも帰ってこいよ」と言った。
父がそんなことを言うなんてと驚いた。

父が二年前に癌で亡くなった日は孫娘の10歳の誕生日だった。自宅で看取った妹は「自分の死んだ日を覚えてほしいと思って、この日に死んだんだ」と泣いた。

父は孫娘をとても可愛がっていた。
娘は僕が50歳の時の子どもなので、もっと父と孫との時間を過ごさせてやりたかったという思いはあるが、それは仕方のないことだ。

「さあ、そろそろ帰ろうか」

ゲストハウスに向かって歩いていると、交差点でホームレスが二人、大声を出している。

「あっちの道を歩こうよ」

「いやいや、大丈夫」

少なくともケアンズには白人のホームレスはいない。いるのはアボリジニだ。失業率は白人の3倍近くになる。政府はアボリジニの子どもを親から隔離し、文明化するための教育を施すという愚策を実施したこともある。これはアボリジニの文化を根絶することが目的だった。

線路内に入り、キュランダ列車を停めたのもアボリジニだった。

 ケアンズへの道17 2024年8月23日

ホームレスのいる交差点にちょうど二階建てバスが左折してきた。イベント用の天蓋のないバスで大学生と思しき若者が盛り上がっている。
一人の男子学生が二階からホームレスを指差して「Hey、You're my brother!」と言う。
娘は「一瞬で兄弟になったで!」と大受け。

夜の道をゲストハウスへと帰る。
入ったことのない、いつものベトナムレストラン。
この角を曲がったら何度も行ったwoolworths。既に閉まっているけど、もう訪れることもないだろう。
ケアンズは小さな街だから半日もあれば、全てがわかるという。
でも全てがわかると言うのは傲慢だ。
たったの二日間だけど、濃密な時間だった。

ゲストハウスの近くに来た時、娘が「この通りを歩いてみよう」と言う。普段は慎重で怖がりな娘が?と思ったが、裏道を歩いてみる。街灯はなく、暗くて不気味な感じだ。
なぜかどこからか動物の鳴き声のようなものが聞こえる。
帰国してからネットでケアンズの危険エリアを調べてみると、以下のことが書いてあった。
まさにわれわれが歩いた通りだ。

 「特に注意が必要なのは、ケアンズセントラルの裏側にあるブンダストリート。 街頭が少ないため、夜は薄暗くなり、殺傷事件・窃盗・暴行・性犯罪が報告されている場所となっています。」

翌朝、パッキングというかリュックに服や充電器などを詰めるだけだが、それを終えて娘を早めに起こす。
ドアに近い(つまり共用トイレに近い。頻尿なので)シングルベッドに私が寝て、ダブルベットは娘に譲っていた。
シーツを丁寧に畳んでいるので、「そのままでいいよ」と言うと、「日本人が悪く思われないように」と言う。これには感心した。
子どもは親の教師みたいなものだ。

7時半にチェックアウト。外に出ると日差しが強い。
エスプラネード方面に向かって歩く。最後は地元で人気のカフェに行くことにした。
ケアンズ港に面した「Wharf One」。
犬を連れてきている人も多い。ひっきりなしに客が来る。それを見ているとオーストラリア人は人生を楽しんでいるなあ、と感じる。
注文したのはスムージーにフルーツボウルとアボカドトースト。
 しかし量が多い。 メニューに14歳以下がオーダー可能のキッズプレートを見つけたのはそのあとだった。

昨夜オージービーフを食べたのであまりお腹は減ってないが、頑張って食べる。私は食べ物を残すのが何より嫌いなのだ。トーストは半分機内で食べることにして、リュックに入れる。娘はこれだけ食べて、と言うので上に乗っかっているオレンジを食べる。
もうお腹は、はち切れんばかりだ。まだバナナやキウイやアサイーが残っていて、底にはシリアルが鎮座している。

娘はゆっくりと時間をかけて口に入れていく。
「無理に食べなくてもいいよ」と言うが、「残すのは悪いから」と言う。
フライト時間があるので10時半にはカフェを出なければならない。娘はそれから1時間かけて食べた。平成生まれなのに天晴れだ。

カフェを出て、歩いていると「口の中にあるものを吐き出したい」と言うので、そこの草むらに吐き出したら、と言ったが「いやだ。トイレで出したい」。

娘は妻の家系の高貴な部分を受け継いでいるんではないかと思うことがある。私の家系にはやんごとなきご先祖様は一人もいないのだが。

カジノを併設した高級ホテルでトイレを借りる。長い間出てこなかったので聞くと「水が止まらなくなった」。

ゆるせ、高級ホテルよ。ゆるせ、オーストラリアの人々。もう空港に行かねばならんのだ。旅の恥はかき捨てか。 最後にケアンズに汚点を残してしまった。

 ウーバータクシーを呼んで空港へ。 延々と続くとうもろこし畑を車窓から眺めていると感傷的になる。
ドライバーが聞く。

ケアンズはどうだった?」
「娘が帰りたくない、永住したいと言っている」
空港には20分足らずで着いた。
「またケアンズに来てくれ」とドライバー。
またがあるのか。
「飛行機からグレートバリアリーフは見える?」
「いや、航路が違うから見えない」
関空に着くと「オーストラリアに帰りたい」と娘。
帰りたい、か。まるで故郷みたいじゃないか。

私はと言うと、大好きなスマッシングパンプキンズを聴きながら公園の前を通りがかると、一瞬ケアンズにいるような錯覚を起こす。
こうやって人は好きな国が増えていくのだろう。旅をした分だけ。
娘の海外への憧れは増していくばかりだ。
終わり


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 皆様への伝達事項

クイーンズランド州の略称はQLDです。ケアンズはオーストラリアのクイーンズランド州に存在します。 親子で初めて南半球の国へ海外旅行して楽しい思い出を作ったそうです。
外国と一言で言ってもG7以外にも数多く存在します。海外旅行すると一種独特の楽しさがあります。娘さんも理解されましたね。

 良き観光関連の業者に依頼して旅を楽しむのも悪くないです。
ドリアン長野の海外旅行記の特徴の中の一つに「海外でレンタカー(自動車)は運転しなかった。」は含まれます。 同様にどこかの誰かが平成の時期に上海で不良タクシーを利用したので運転手と激論したのも連想かな?
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某人物(ドリアン長野ではない)と海外で過ごした時について会話したら自動車の運転が含まれました。空港から目的地迄の公共交通機関が無いに等しい街に赴く場合は自動車の運転が不可欠です。
航空会社によってはレンタカー業者とも提携してるので渡航前に予約か?利用の妨害はしませんがレンタカーについては交通事故の懸念から推奨しません。
 海外で自動車を運転するなら国際運転免許証は必須です。

 自動車の運転は国の内外を問わず難しい範疇です。 私は皆さんがどちらの国へ渡航されるかは予想出来ません。AT限定免許が存在する国とそうではない国が存在するので詳細は各自でお調べください。仮に、レンタカー業者が到着した海外の空港内で営業していてもマニュアル車のみか? 公共交通機関は重要。

渡航前には必ず旅先の海外旅行案内書を読んで交通事情を知ってから利用しましょう。 日本と海外では状況が異なります。
QLDにおいても、日本と同様に人体に有害な植物が存在するので気を付けて下さい。動物は許可が無い限りは触れないで下さい。
軽率な行動が予想以上に健康を害する恐れはございます。

帰国便の時間やホテルの入室の時間は存在します。
bizarre.は奇妙という意味の英語です。
ホグワース特急はホグワーツ特急のようです。
過去と現在は違います。平成27年に私は渡航したしドリアン長野にしたら初めての南半球での親子旅行です。
娘からは帰国したくないと言われて困ったようです。

観光列車のキュランダ鉄道は時速16kmなのでしょうか?千葉や東京では有名な時速160kmのスカイライナーに乗り慣れてる人が時速130kmで運行するJR西日本の新快速に乗ると遅く感じるのか?観光用なので意図的に停車時間は長めにしてるそうで新幹線やフランスのTGVとは異なるようです。

 日本と違って海外では約1.6kmのマイルが採用されてることが多いです。 私が平成27年に利用したカナダラインは路線距離19.2kmなので12マイルです。
 周知されてるが電車賃を踏み倒した事が判明するとどこの国でも罰金刑です。
最初の幻視は、第九話で紹介されてた全身を金粉にまとった人か?

herd of ants . 「蟻の群れ。」をQLDで見るのは勝手ですけど私は皆さんに対して捕食は推奨しません。英語のherd.は群れと解釈して下さい。間違えてもheard.は「聞こえてきた。」ですしhardは「固い。」ですので誤解しないようにしましょう。
 典型的な混乱用語なのであろうか?

海外旅行中に在外邦人と出会った時に出身が地元では無いので日本も広大なのを再認識した人は多いに違いありません。それだけではなく日本人であると同時に善人で活躍されてると嬉しいです。
逆に公共の敵に匹敵する無礼者だったりすると本当に大変です。
娘さんと仲良く旅行されてるので私も安堵します。

 オージービーフは牧草で育ってるので風味がありおいしいです。
実際には何等かのタレでその風味は消え去ってしまいます。 何の味付けで食べたかは不明ですがご馳走をかの地で食べたそうです。
 日本でもオージービーフは販売されてますが本場の味とは異なるそうです。 個人的にはローストビーフが好きです。

 軍事の領域で悪人に対して制裁を加えた人はいる。
 過激、狡猾、高慢と誹謗されるやもしれないが社会の安定の為には不可欠な行動であったのを連想する。何人もの人々の悪事に対して制裁を加え嘲笑したが賛同する人は少ないので辛い。 
万人が納得する内容ではなく笑えない旅行記ケアンズへの道16です。

まとめサイトであり趣味で楽しんでます。今回は特別に取捨選択をした理由についてお伝えします。 難しすぎる社会問題について無神経発言をしてはいけないことになってます。例えそれがブログであってもです。それなりの決断を下したブログの運営企業はございます。説明しても軽視されるやもしれません。

悲しい思いをしながら人生を過ごしてる人はおられます。ブログの書き込みが行えない設定にしておいて良かった。実際にはサイバー攻撃が行える悪人はいて本当に責任が問われたらしい。もっと、厳しい姿勢で糾弾しておけば良かったのか?旅行記なのか人生の苦悩について考える投稿なのか判別出来ません。

治安が悪い通りを歩くのは辞めましょう。海外旅行案内書は旅行前に読んでおく意味があるんです。従って、ある程度は行ける通りとそうでない通りを区分け出来ます。錯乱してる人は有名な観光地に行かなかったのはおかしいと単純に批判するかもしれないが治安が悪い街に近いのを理由に辞めた人はいます。

「本人に問題があったら家族に責任を取ってもらいます。」と教えられたのでそれを実践した人は多いであろうから共同不法行為にならないような生活は重要です。親御さんが悪かったのでお子さんに軍事の領域で責任を追及した人はおります。オーストラリアもベトナム戦争に参戦したのは周知されています。

オーストラリアは1970年代にベトナム戦争の難民を受け入れたと言われてます。今でもその影響はあるようです。楽しんでる人が多いように思えても実際には苦労された人々は多くおられます。そういう訳で集団的自衛権について否定する人はおります。過去は日本軍が豪州に攻撃したが現在は異なります。

なぜ、人は冷たい心を持つのか?悪人はおります。猜疑心や嗜虐心が旺盛な人から旅行中に自由妨害をされなかったので羨ましいです。私が平成27年にカナダを旅行してる時には日本にいながら慇懃無礼で防犯上の問題があるストーカーから毎日フェイスブックのタイムラインに詰問されたので返答したが損するだけで得することはなかった。実際に渡航して楽しめたら旅先について好ましく思えます。争いが無い社会を希望します。
令和六年十月迄にケアンズ旅行記を統合した上で投稿するだけでなく過去に利用してたブログ(旧ドリアン長野の海外旅行記)の退会をします。
今回は令和六年八月23日に終了したので投稿しました。
 正直、「今月末にも投稿するのでは?」と思っておりました。

海外旅行した時に赴いた街と地元の町を比較するのは実際に渡航した人でないと理解されません。渡航先と故郷は大違いです。将来的に再び渡航するのか否かは不明ですが親子で南半球の豪州を旅行されたのは良き思い出になったのは間違いありません。
 私は奥さんの体調については改善することを希望します。

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 回顧を兼ねた書評
 僕の初海外旅行は26歳の時のインドだった。
 当時往復チケットは年末料金だったので30万した(泣)。
 行く前は椎名誠の「わしもインドで考えた」を熟読。
 インドでは尻の毛まで抜かれるほどぼったくられ、下痢と発熱で散々だったけど、
 それからはリーマンパッカーとして主にアジアをふらふら。
 アフリカは遠すぎて行けなかった。新婚旅行もバックパックでバンコクと香港へ。
 香港では雑居房のチョンキンマンションで二泊し、妻はぐったりしていた。
 バンコクでは安宿と高級ホテルと泊まり歩き、マリオットのプールで
 溺死しそうになったのは今ではいい思い出だ(嘘)。
 旅も好きだが、旅行記も好きだ。
 この本は主にアフリカ旅行のエッセイだが、面白い。
 何よりも文章がうまい。
 奥さんとのなりそめを綴った「追いかけてバルセロナ」なんか疾走感があり、
 一気に読め、感動的でさえある。
 朝の通勤の地下鉄で読んでたけど、日本にいながら気持ちはバックパッカー。
 旅の本もいいけど、また出かけたいなあ。


 管理人マーキュリーマークからの伝言
 上記は、ドリアン長野が令和二年に投稿した内容です。
 令和六年にドリアン長野は親子でケアンズ旅行。