訃報 令和七年二月


先日母が92歳で亡くなった投稿に多くのコメントをいただき、ありがとうございました。
両親の死去で少し不思議に思うことがありましたので書いてみます。
四年前、娘の誕生日の前日のことです。本人にとって10歳になるというのは一つの節目でもあるのでしょう、10歳になる瞬間の12時まで起きてる、と言っていました。
私はその前に寝たので娘が実際起きていたのかどうかはわかりません。
翌日、普段なら教会に行くのですが、コロナ禍なので教会は閉鎖し、オンラインで聖餐会を各家庭で視聴していました。なので開会の10時までの間、妻とタブレットで教会関係の動画を見てみていました。 7時半くらいだったでしょうか。横浜に住む妹から着信があった時、私は覚悟しました。妹は看護師でUR住宅に住む両親の介護をしていたのです。
やはり父が亡くなったという知らせでした。
今日は娘の誕生日だということを告げると、妹は「自分の亡くなった日を覚えてほしいからこの日に死んだんだ」と泣きました。
そして母の時です。亡くなる四日前の水曜日に施設から母が呼吸困難になり、酸素マスクをつけさせていただきました、と連絡がありました。
土曜日に訪問すると息をしているものの、声を掛けても肩を叩いても反応がありません。
母は耳が悪いので訪問する時は筆談用のスケッチブックとサインペンを持っていくのですが、もう必要はありませんでした。明日の3時に訪問予約をして帰りました。
その日の夜に、先週沖縄神殿に行ってきた娘が聖餐会でその時のことを話したいと言い出しました。
私は驚きました。今までそのようなことを言ったことはなかったからです。
その週の話者は三人が決まっていましたが、第一話者に入れてもらいました。
土曜日の夜、娘はお話しの原稿を遅くまで書いていました。
当日の朝、私は少し心配していましたが、娘はしっかりと話していました。
壇上にいた私は娘のお話しの途中で妻が礼拝堂を出ていく姿を見ました。
娘が話し終わるとほぼ同時に妻からLINEの着信がありました。
「今、施設から電話あり
呼吸が大分浅くなったので、予約時間関係なく、早く来て下さいとのこと」
とありました。
私は壇上にいる娘に事情を話し、三人で礼拝堂を出ると急いで施設に向かいました。
部屋に入ると、既に母の意識はありませんでした。
私には母が孫娘のお話しが終わるまではと、懸命に生きていたように思えてならなかったのです。

 

 回顧を兼ねた書評
 僕の初海外旅行は26歳の時のインドだった。
 当時往復チケットは年末料金だったので30万した(泣)。
 行く前は椎名誠の「わしもインドで考えた」を熟読。
 インドでは尻の毛まで抜かれるほどぼったくられ、下痢と発熱で散々だったけど、
 それからはリーマンパッカーとして主にアジアをふらふら。
 アフリカは遠すぎて行けなかった。新婚旅行もバックパックでバンコクと香港へ。
 香港では雑居房のチョンキンマンションで二泊し、妻はぐったりしていた。
 バンコクでは安宿と高級ホテルと泊まり歩き、マリオットのプールで
 溺死しそうになったのは今ではいい思い出だ(嘘)。
 旅も好きだが、旅行記も好きだ。
 この本は主にアフリカ旅行のエッセイだが、面白い。
 何よりも文章がうまい。
 奥さんとのなりそめを綴った「追いかけてバルセロナ」なんか疾走感があり、
 一気に読め、感動的でさえある。
 朝の通勤の地下鉄で読んでたけど、日本にいながら気持ちはバックパッカー。
 旅の本もいいけど、また出かけたいなあ。


 管理人マーキュリーマークからの伝言
 上記は、ドリアン長野が令和二年に投稿した内容です。
 令和六年にドリアン長野は親子でケアンズ旅行。