#13ネパール(リターンズ)

 カトマンズの朝は早い。そして寒い。ここ、バサンタプルの広場でも早朝から何することもなく人々がたむろしている。オーストラリアから来たという女の子が物乞いをする少年に仏心を出し、パンケーキを買ってやった。それを他のガキどもが見逃すわけはない。「僕にも、僕にも」と彼女を取り囲む。困惑顔の彼女はしかし、近くにいた大人がたしなめたおかげで事なきを得た。ああくわばら、くわばら、桑原和男(吉本のギャグどぇす)。寒いのでギャグも寒い。それにしても遅い。さっきから誰も来ない。なぜ私がこんな所で待ちぼうけを食っているかというと、今からさかのぼること昨日のことだ。
タメルで一泊した私はジョッチェンに投宿しようと昼前にここにたどり着いた。そして広場の入口にある貸し自転車屋の前の絵看板に目が釘付けになってしまったのだ。こっ、この一見ヘタだがよく見るとやっぱりヘタな絵は極真会館の松井館長ではないかっ。ほれっ、その証拠に極真マークもちゃんと描いてあるぞ。なにを隠そう、私は極真空手家だ。夢はムエタイ・ボクサーとルンピニー・スタジアムで戦うことだ。ちなみに子安慎悟?(あれっ?)のファンだ。ここってもしかしなくてもネパール支部じゃん。これも何かのお導き、天国の大山総裁、ありがとうございます、押忍っ。カラテ道場を知らないかとそこら辺の人に聞いてまわったが、誰も知らん。そうしている内に60歳くらいのお爺が出て来て言った。 「道場なら閉鎖して去年ニューヨークに引っ越したよ」
何でネパールの道場がニューヨークに引っ越すんじゃい! と今ならつっこむところだが、生憎その時の私は冷静さを失っていたので心底、落胆した。せめて閉鎖した道場でも見たいと所在地を聞くと、このじっさま知らんとぬかしよる。何でやねん! 筋が通らへんやないけ! と今ならつっこむところだが、私はあせって平常心を失っていた。しばらくすると、じっさまはまわりの人に何ごとかを尋ね、郵便局に行こうと促すのだ。何でやぁ~~っっ?! しかし、頼みの綱はこのじっさましかおらん。大人しくついて行くと、うしろからガタイのいい男が追っかけて来た。 「僕の弟は黒帯で指導員をしてたんだ。僕自身は結婚して忙しくなったので茶帯でやめてしまったけど」 そうか、そうか。君がそうなのか。会いたかったぞ。我々は再会を約束し、そこで別れた。聞きたい話はたくさんあるが、まずホテルを確保しとかんとな。ホテルにチェックインする時もなぜかじっさまはついて来て街を案内してくれた(とはいっても広場とショッピング・センターだけだがな)。バサンタプルに戻り、さきほどの男と話をしていると彼の弟の黒帯空手男(クマルという名前)と奥さんがやって来た。奥さんは台湾人で、ネパール旅行中にクマルと知り合ったそうだ。二人はこの広場で露店商として土産物を売っているのだ。私とクマルはカラテについて飽くことなく、何時間も語り合った。奥さんは傍らに座っていて時おり会話に加わった。クマルの影響でカラテに詳しくなっているらしい。
じっさまが再び現われて、「あっちで待ってるから」 と言った。このたわけた子泣きじじいめ。わしが何のために世界中で何度も何度も何度も(泣)騙され続け、何回も何回も何回も(号泣)金をまきあげられたと思うてけつかんねん! てめえの悪だくみなんぞ、こちとらお見通しでい!(我ながら気づくのが遅いっちゅうねん) 無視するとじっさまはいつの間にかいなくなった。あまりクマルの商売の邪魔をしては悪い。 「またあとでね」 と腰を上げ、近くのガキんちょたちにババぬきを教えて遊んでいたら、今度は見るからに怪しそうな男に肩を叩かれ、ついてこいと声をかけられた。てめえ、じじいの仲間か、と警戒心を抱きながらもついていった。それにしても人相悪いぞ、この男。私は5、6人の男女がたむろしている場所へつれてこられた。なによっ、あんたたち、変なことしたら大声だすわよっ。 
「私たちはキョクシンカラテのメンバーです。オス!」 なんだ~、びっくりさせんじゃないわよ~。でも良かったわ、会えて。みんなに、すぐ近くにある彼らの先生(三段)のアパートまで案内してもらった。先生は8畳ほどの部屋に妻子と住んでいるのだが、壁の到る所にカラテの賞状が飾られている。何冊もあるアルバムは稽古や試合の写真ばかりだ。私(長野)は猛烈に感動した! この地でこんなにも極真カラテを愛している男がいたことに!! (梶原一騎調でお読みください)
一週間後に試合があるからビザを4日間延長してカラテを教えてくれと懇願されたが、私は真面目なリーマン・パッカーだ。帰国して職を失ったら家賃が払えん。残念ながら断ると、それじゃあ、明日道場生とピクニックに行くから一緒に行きましょうと誘われたのだ。
7時の予定が結局8時半に出発した(ネパールタイムだそうです)。8人が幌付きのトラックの荷台に乗って。みんなの顔を見ると何だかヤクザの出入りか自衛隊の演習って感じぃ~。着いたダクシンカリはヒンズー教の寺院で神サマに捧げるためにヤギの首をはねるそうだが本当にはねていた。ピクニックといってもネパール人は弁当なんぞ持っていかん。材料を持参して現地で料理する(もちろんカレーっす)。トラックに積んでいたバカでかいインド製のカセットでダンス大会をするつもりだったらしいが、シャイなネパール人は誰も踊ろうとしないのだ。ここでも私が得意のダンスを披露して、皆の尊敬を一身に集めたのはいうまでもない。
翌朝、バサンタプルを歩いていると誰かに聞いたのか、「僕もキョクシンカイです」と佃煮にできるほどのガキんちょ、いや少年たちに声をかけられた。そういうわけで朝からこの広場にはあっちこっちで気合いがこだまするのであった。オッ~~ス! 
管理人マーキュリーマークの感想文と皆様への伝達事項
 明けまして、おめでとうございます。
ドリアン長野は、本当に空手家です。 ネパールでも価値観を分かち合ってきたそうです。 何かの共通点があると人は仲良くなりやすいですね。
ただ、ネパールと言えば、政変がありました。 平成10年代は、王政でしたが平成20年からはそうではなくなりました。 我々は、内政干渉は行えないであろう。 実際にネパールに詳しい日本人に話を聞きましたが、そういった返答でした。 
これは、実体験のお話しだが確か90年代のある日だったと思うが宅配ピザを発注した所、ご近所のお子様達がピザを一枚くれと叫び始めたのを連想する。
2000年以降の平成10年代のある日以降、日本の治安が悪化しているからなのか、したからなのか、私を理解したからか、彼等が大人になったからなのかは全く分からないが、馬鹿げた質問をされることは無くなったから良かった。 最近の日本人は、罪悪感が欠落した悪人が増加してきて社会問題になっているが元々は馬鹿げた発言をする人間に問題がある。
何らかの国際的な団体に自分自身が所属していて、諸外国に赴き同じ志を持つ人々に出会うと嬉しい気持ちになると思います。 確かに色々と生活習慣等で違う点は多いが共通点が存在すると話しが合うんでしょうね。 皆様は、どうですか? 次回のドリアン長野の海外旅行記(リターンズ)をお楽しみにお待ちください。
 

 回顧を兼ねた書評
 僕の初海外旅行は26歳の時のインドだった。
 当時往復チケットは年末料金だったので30万した(泣)。
 行く前は椎名誠の「わしもインドで考えた」を熟読。
 インドでは尻の毛まで抜かれるほどぼったくられ、下痢と発熱で散々だったけど、
 それからはリーマンパッカーとして主にアジアをふらふら。
 アフリカは遠すぎて行けなかった。新婚旅行もバックパックでバンコクと香港へ。
 香港では雑居房のチョンキンマンションで二泊し、妻はぐったりしていた。
 バンコクでは安宿と高級ホテルと泊まり歩き、マリオットのプールで
 溺死しそうになったのは今ではいい思い出だ(嘘)。
 旅も好きだが、旅行記も好きだ。
 この本は主にアフリカ旅行のエッセイだが、面白い。
 何よりも文章がうまい。
 奥さんとのなりそめを綴った「追いかけてバルセロナ」なんか疾走感があり、
 一気に読め、感動的でさえある。
 朝の通勤の地下鉄で読んでたけど、日本にいながら気持ちはバックパッカー。
 旅の本もいいけど、また出かけたいなあ。