#29 インド編その5 (リターンズ)

#29 インド編その5 (リターンズ)
2012-04-02 | Weblog
 2003 12/12 22:38 
 事情を話すとおっちゃんは「べナレス行きの列車は今日はもうないから、チケットをキャンセルすればお金が戻ってくる」と言う。おっちゃんに連れられて案内所に行って聞いてみると「国際外国事務局」なる所で明日払い戻しをしてくれるそうだ。やれやれ、とにかく戻ってきたお金で新しくチケットを買い直そう。おっちゃんは「ついてこい」と手招きをする。この時点でも私はこのおっちゃんを信用していたわけではない。だが、今にも倒れそうな状態であれこれ詮索するのも面倒だったので、大人しくついていくことにした。
 駅から5分ほど歩いた場所に旅行会社のオフィスがあり、おっちゃんはそこに入っていく。ここの社員らしい。オフィスで少し休憩してから、リキシャーでおっちゃんの紹介してくれた「ホテル・アトランタ」に行く。ゲストハウスではなく中級ホテルだが、一泊80ルピーと、そう高くはない。おっちゃんは従業員と少し話しをすると帰っていった。部屋に案内してくれた従業員の兄ちゃんに「私は病気である。だから大変苦しい」と言うと、その兄ちゃんは驚いていろいろと世話をしてくれたのだが、その世話が半端じゃなかったんだよ。毛布を持ってくるわ、食べ物を運んできて食べさせてくれるわ、医者を呼んでくれるわ、薬を飲む時間になると水まで持ってきて飲ませてくれた。彼は夜勤なので明日、自分の代わりに私の世話をする人まで頼んでくれた。うっうっうっ。インドでこんなにも人に親切にされるなんてえぇぇ~。私は彼に何度もお礼を言い、やがて眠りに落ちるデリーの夜8時なのであった。
 翌朝は6時に起床。下痢はまだ続いていたが、熱は少し下がったようだ。8時半にべナレス行きの列車が出ると聞いていたので、急いでチェックアウトをする。駅で窓口に割り込んでくるインド人たちと死闘を演じたあげく、やっと二等寝台車のチケットが取れた(100ルピー)。ホテルに戻り、フロントで昨夜の彼に渡してくれと、迷ったが10ルピー差し出した。せめてもの感謝のつもりだったが、あれから10年以上立つ今でもふと思う。あの10ルピーは彼の手に渡ったのだろうか? やっぱり、渡っていないような気がするな。
 駅で昨夜のおっちゃんに出会った。おっちゃんは「いいか、事務局でチケットを見せれば大丈夫だからな」と言って、風を巻くように去って行った。うっ、かっちょいい。私にはおっちゃんの後ろ姿が高倉健に見えた。そして警戒心のせいで無愛想にしたことを激しく後悔した。親切で話しかけてくる人とそうでない人を見分けるのはとても難しい。今日でも構内をうろうろしていると、いろんな人が話しかけてきて教えてくれたのだ。それでもいい人だと思って気を許せば、騙されることもしばしばだ。結局、旅行者は騙されてボられながら旅を続けていくしかない。絶対ボられまいと肩ひじ張った旅は面白くないし、旅行者は基本的にその国にとって客人だから通行料だと思えば少しくらいボられても腹は立たん(と思えるほどの大人になりたいわっ!)。 
 しかし、それからがまた大変だった。事務局で聞くと、8番の窓口に行けと言われる。へい、さいですかと8番に行くと13番に行けと言われる。13番に行けば14番に行けと。ああっ、たらい回しだあ~っ。病み上がりの体でひーひー言いながらうろうろしていると、一人の男がここで聞けと13番と14番の間の小さな窓口を教えてくれた。こうしてやっとの思いで払い戻された大枚188ルピーを握りしめ、いつ出発するとも判然としないインド列車に備えて出発(あくまでも予定)時刻の3時間前からプラットッホームで待機していたのであった。青年は荒野をめざす。いざいかん、聖地ベナレスへ! でもここから18時間かかるんだよな。 
 二等列車に乗り込むと、その中はインド世界を凝縮したような騒々しさである。立錐の余地もないほど混み合ってる車輌にヤギを連れ込むやつがいるし、物乞いがお金をせびりに来たかと思えばおひねりをもらいに歌を歌いに来る人もいる。ガキどもは「バクシーシ」と遠慮なしに手を差し出してくる。こいつら絶対、無賃乗車だな。ななめ前に座っていたおじさんが「chinese?」と聞いてきた。それからこのおじさんが喋ること喋ること。よく分からないインド英語で、俺はガス会社に勤めてるとか東京と大阪にペンフレンドがいたとか、延々とまくし立て、それを回りの乗客が興味深そうに見ている。何時間かして、車掌が検札にやって来た。私のチケットを見て、「この車輌じゃありませんよ」と言う。おじさんが降りる駅で一緒にホームに降り、ポーターにチケットを見せた。 「ついてこい」(インドではこの言葉をよく言われるなあ) そう言うとポーターは私のリュックを肩に担ぎホームを走り出した。列車がどれくらい停車しているか分からんが、乗り遅れたらベナレスはおろか日本に帰ることもままならん。私は必死に走った。こんな時でもなぜか走りながら夜空を見上げ、月がきれいだなあ、なんて思っていた。ポーターの指し示した車輌に飛び乗ると同時に列車が動き始めた。お礼にと彼に1ルピーを渡そうとしたら、受け取ろうとしない。誇り高い人だなと思ったら、「パイサはいらない」と言っている。よく見るとそれは1パイサ硬貨だった。あわててポケットから50パイサを3枚つかみ出し、放り投げた。はあーっ。
 疲れ果て、三段寝台の中段にもぐり込み、泥のように寝る。下痢は依然として続いていた。いろんなことがあったような気がするが、インドに来てからまだ4日目なのであった。(つづく)

元(ハジメ)管理人の感想文と皆様への伝達事項
 まず始めに今回のインド旅行記を読まれた方々に伝達しますが、この旅行記は90年代かそれ以前の旅行記です。2003年(平成15年)に始めて発表された時点で10年以上前と主張されてます。この旅行記はある意味、アウトレットです。時々、どこかの国の国営放送も大過去の旅行記を放映していますね。それと似たようなものだと考えてお読み下さい。
 インド国内であっても病気で苦しんでいる状態であっても地獄から天国へと行ったようなお話でしたね。親切な人がいるかと思えば全然ダメな人も混在している状況です。法治国家は素晴らしいですね。そればかりか、旅行代理店がそれなりの仕事をしているからここまで大変な個人旅行にならないのかもしれません。
 しかしながら、日本国内においても行き先が不明瞭な駅が多いのが現実です。なかもず駅(地下鉄)というか中百舌鳥駅(南海と泉北高速鉄道を兼ねた駅)がその典型例かもしれません。ご存知の方も多いでしょうが南海と泉北高速鉄道は同じ車両を利用している場合があるから紛らわしいです。平成十年代のある日、中百舌鳥駅で案内をした経験がありました。地方から大阪府に住んでいる息子さんに再会する為にやってこられた親御さんから質問されましたの案内をしました。私はこの時、彼等とは行き先が違っていたので電車の中では話をしませんでした。彼は、その時娘を連れてきていたから親子で大阪に来られていました。
 電車を乗り間違えると怖いですね。千葉県の西船橋駅のように恐ろしい駅がございます。乗り間違えると余裕で30分以上は目的地に到着するのが遅くなります。理由は、電車の本数が少ないからです。しかし、ホーム数が多くて12番ホーム迄存在しているから乗り間違えると試練です。千葉県民の間では有名なお話らしく西船橋駅については爆笑する千葉県民の男性や呆れる千葉県民の女性が居られました。
 日本国内で外国人が電車に乗っているのはよくあることで英語が喋れたら長話になることが多いですね。相手が英語を喋れない場合は片言の現地の言葉で終る場合が私の場合は多いです。喋るよりも書籍を読んでも良いかもしれませんね。 過去の時代だけあって、ペンフレンドがいたというのがインターネットによる技術革新を感じさせますね。今ではe-メール、ツイッターフェイスブックと変化してきていますね。
 海外旅行に行く時には胃薬、常備薬、(アレルギー性胃炎の為に)抗ヒスタミン剤等を忘れずに持っていった方が無難でしょうね。国内旅行の時もそうかもしれません。日本国内でも広大な住宅街に赴くと恐ろしいですよ。建物が多くあっても助けを求めにくいですからね。
 ご存知の方も多いでしょうが果たして目的地のベナレスにドリアン長野は行けるのか?
 次回のドリアン長野の海外旅行記(リターンズ)にご期待ください。
 

 回顧を兼ねた書評
 僕の初海外旅行は26歳の時のインドだった。
 当時往復チケットは年末料金だったので30万した(泣)。
 行く前は椎名誠の「わしもインドで考えた」を熟読。
 インドでは尻の毛まで抜かれるほどぼったくられ、下痢と発熱で散々だったけど、
 それからはリーマンパッカーとして主にアジアをふらふら。
 アフリカは遠すぎて行けなかった。新婚旅行もバックパックでバンコクと香港へ。
 香港では雑居房のチョンキンマンションで二泊し、妻はぐったりしていた。
 バンコクでは安宿と高級ホテルと泊まり歩き、マリオットのプールで
 溺死しそうになったのは今ではいい思い出だ(嘘)。
 旅も好きだが、旅行記も好きだ。
 この本は主にアフリカ旅行のエッセイだが、面白い。
 何よりも文章がうまい。
 奥さんとのなりそめを綴った「追いかけてバルセロナ」なんか疾走感があり、
 一気に読め、感動的でさえある。
 朝の通勤の地下鉄で読んでたけど、日本にいながら気持ちはバックパッカー。
 旅の本もいいけど、また出かけたいなあ。