カンボジア旅行記 (リターンズ2.0)

ご連絡 今回、特別にカンボジア旅行記カンボジア~とカンボジア再び)をまとめました。
紹介した動画はドリアン長野並びに私(マーキュリーマーク)が撮影したものではなく、参考の為の転載です。

管理人マーキュリーマーク
カンボジア~ (リターンズ)
 「い、いっでぇ~っ!」 
腹痛で目が覚めた。時計を見ると、まだ朝の5時前だ。シェムリアップのホテルでついに下痢に襲われてしまった。原因は分かっている。昨日、アンコール・トムを見物したあと、ホテル近くの屋台に夕飯を食べに行った。そこは広場に立ち並ぶ屋台のうちの一つで、母と娘が切り盛りしていた。昼に食事した時、彼女たちが親切にしてくれたのだ。広場にはゴミ捨て場もあって、ハエを追っ払いながらメシを食うのも難儀だったがな。行ってみると、昼間は汚れた顔をしていた娘が化粧して着飾っている。夜は営業用の顔か? ともかく、フルーツを何種類かミキサーに入れてジュースにしてくれたので、飲んだ。それがいかんかったようだ。しかし、その時点では大したことがなかったので、早朝にホテルをチェックアウトした。「フリーダム」という名のそのホテルはホテルといっても、ゲストハウスに毛が生えた程度だ。モーニング・コールを頼んだはいいが、部屋に入ってみると電話がない。はて、どうすんだ?と思っていたら、翌朝、フロントの人がその時刻に部屋のドアを叩きに来たのであった。このホテルはプノンペンの空港で客引きのにいちゃんに勧められた。バイクの送迎付きで一泊15ドルのはずなのに、二泊で40ドルだとぬかしやがった。(もちろん30ドルにさせたけど)行きは飛行機だったが、帰りの便が満席だったので、スピード・ボート(という名の渡し船)にした。
 ボートは強盗に襲われるので危険なのだそうだが、地元の人や観光客が大勢乗っていてのんびりしたものだ。5時間かけて、プノンペンに着く。ううっ、いかん、小腸及び肛門周辺に緊急事態発令~っ。船着き場からダッシュでホテルにチェックインして、トイレに駆け込む。軟便というよりは水である。ああっ、フラフラする。3時間ほど横になったが、眠れない。今日はゆっくり静養しようと思ったが、せっかくカンボジアまで来て無為に過ごすのはもったいない。なんとか病身を起こし、ピーピーのヘロヘロ状態でホテルを出て、バイク・タクシーをつかまえた。郵便局に行ってハガキを出してから、情報省に行く。ここでパスポートと写真を提出し、書類に必要事項を記入すれば、ジャーナリスト・カードを5ドルで発行してくれるのだ。その間、わずか10分。カオサンあたりで売っているぱっちもん(ニセモンのことです)とはわけが違う。何に使うのかというと、これが大いに役に立つ。日本に帰国する際、税関職員の目につくようにパスポートにはさんでおくのだ。職員がパスポートをめくりながら言う。 「これは何ですか?」 「ジャーナリスト・カードです」 「すると、今回はお仕事で?」 「ええ、まあ、取材でね」 とかなんとか言って楽しむわけだ、これが。(うっ、書いてて涙が.....)ともかくだなっ、それだけをやり終えるとシアヌーク通りにあるコンビニ、「Tokyo store」でパンとジュースとミネラルウオーターを買い、ホテルに戻った。まだ6時前だが、今日の行動は全て終了! ベッドに倒れ込む。
 それから翌朝までベッドとトイレを20往復はした。食欲はないが、脱水症状になるのでこまめに水分を補給する。買っておいたパンにはとうとう手をつけなかった。下痢と寝不足でヨタヨタと空港までたどり着き、なんとかバンコク行きの便に乗ることができた。その日はカオサンのホテルに泊まり、次の日にマニラ経由でやっと帰国した。その間、ず~っとお尻はピーピーさ。その3日後、仕事から帰ると保健所から留守電が入っていた。
 「あなたの乗っていた帰国便の乗客の中からコレラ患者が出ました。追跡調査をしたいので連絡して下さい」ってな!
 げげ~っ! あわてて夕刊を読むと、インド帰りの男性がコレラを発病。インドで食べた乳製品が原因らしい。今年始めてのコレラ患者。という記事が載っていた。その男はラッシーを飲んで感染したに違いない。そういえば、飛行機の中で私の隣に座った男は青い顔をして機内食も食べずに(私も無理して食べたが、残してしまった。機内食を残したのはそれが始めてだ)、頻繁にトイレに行ってたぞ。うぬぬ、まさか、そやつが.......。
 あくる日、保健所に電話して、体にはなにも異常なし、と答えておいた。「お尻がピーピーですう~」などと正直に申告するといろいろと面倒だ。昔、インドから帰った時に懲りてるからな。 


その日に病院に行って、薬をもらってきた。医者からは「3日以上、下痢が続いたら危険ですよ」とあきれられたけど。薬を飲んだら、お尻は沈静化した。それだけで済んだのならよかったが、私は当時、夜間大学に通っていたのだ。何日間かは薬を飲んでいたのだが、ある日、下痢が再発し講議を休んだ。しかし、その日は期末試験が行なわれていたのだったぁ~っ。知らなかったんだよぉ~。大事な必修科目を落とした私は結局、大学を中退することになってしまったのだ。ううっ、カンボジア~。 
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 これは、実話です。 色々とあって、追試もダメになりました。
やはり、虚言を言ってしまった懲罰もあったかもしれない。 こういった日和見が多くの日本人に迷惑をかける可能性だってありますからね。 そういえば、三月と言えば卒業シーズンですね。 二月や三月には激変を体験されてこられた人々も多いに違いありません。
幾つか存在している海外旅行記の中でよく見受けられる内容の中の一つに疾病の問題があります。 国際化社会なので風土病は無くなっているし砂嵐の影響でウイルスが飛散していると言われてもいます。 「アフリカのどこかの国から日本に歩いてやってきたのか、エボラウイルス?」と質問したくなるような事態が愛知県で発生しました。 要するに、2010年に愛知県で研究の為に飼育されていたニホンザルが謎の病気に集団感染して流血して死亡していたのです。 
 他にも、東南アジア方面の商品を日本へ輸入する商売人から聞いたお話ですが、台湾で下痢に襲われてから必ず胃薬を持ち歩くようにするようにしたそうです。 
 是非については、問いませんが日本の大手乳酸菌飲料メーカーがインドに進出しました。 現地(インド)のラッシーが存在は許されていても余り信用されていないからか、それなりに営業面で成果を導き出しているそうです。 まぁ日本でも一般的な商品と少し違う輸入品は、それなりに人気があるのと同様です。例えるならば外車のようなものです。 全く逆に、ラッシーは日本でも人気のある飲み物になっていますね。 

 カンボジアは、平成10年代に変わりました。 平成20年代の昨今では、カンボジア製の靴やアパレル商品は、日本国内においても一般的になってきました。それだけ、経済復興を成し遂げているようです。

カンボジア~その2 (リターンズ)

アンコール・ワットやアンコール・トムにはカメラのフィルムや絵葉書や笛や扇子を売りつける少女がごまんといる。観光客を見つけると、「お兄さん、お兄さん」と雲霞の如く寄ってくるのだ。彼女たちをかきわけ、かきわけ遺跡を見ているうちに、ふと思った。プノンペン市内ではほとんどお金を使うことはなかったが、遺跡を見るためにシェムリアップに来てからは予想外に散財した。まず、プノンペンからシェムリアップ間の航空券が55ドルに、帰りのスピード・ボート代が25ドル。アンコール・ワットに一回入場するたびに20ドル必要だ。あと、バイクタクシーやホテル代も結構使ったし、出国税もいるから、その分だけ所持金から引いてみるとだな........。があ~ん! 今日のホテル代を払ったらすかんぴんやあ~っ! 困ったあ~、どうすんねん、と遺跡の中で一人、頭を抱える私であった。
 ともかくホテルに戻り、リュックをかき回してみると、ベトナム紙幣が5万ドンほど見つかった。すぐに中国人経営の両替商で両替してもらうと、9ドルになった。う~、ありがたや、これでご飯が食べられる。あとは日本円の硬貨をかき集めると2000円ほどになったが、硬貨は両替できない。日本人のツアー客をアンコール・ワットの前で待ち構えて、紙幣に両替してもらおうか等と思案しながらもう一度ホテルに戻ると、フロントで日本人らしき男が二人、話をしている。そう思うやいなや私は一目散に駆け寄り、彼らに話しかけていた。
 「すいません、日本のかたですか?」 「そうですよ」
 事情を話すと、心良く両替してくれた。のみならず、ホテル内にある中華レストランでご飯をおごってくれ、1万円も貸してくれた。いい人やあ~。聞くと、これからバンコクからネパールへ行き、帰国するのは二か月後だそうだ。あとから考えると、二か月もの間、2000円も使えない硬貨を持ち歩くのはさぞかし邪魔だったであろう。川原様、ありがとうございました。おかげで私は生きて日本に帰ることができました。
 さっそく、二日間世話になったバイクタクシーのソーウオッポにガイド料を払う。大金が入って気が大きくなっていたので奮発して20ドル渡した。とたんに彼の顔がだらしなくデヘヘ~となったので、しまった、払い過ぎたなと思った。初日にガイド料を聞いたら、「It depends on you 」(お任せします) と言われていたので少なかったら悪いと思っちゃうんだよな。敵も人の心理をよく心得てるよ。いかん、いかん。せっかくのお金を大事に使わんとな。それからは出費をできる限り押さえた。ずっと頭を洗ってなかったのでシャンプーを買いにコンビニに行った時も、5ドル(!)もしたので30分迷って結局、買うのをやめたくらいだ。(頭がかゆい)
 だけどプノンペン・ポチェントン空港の出国税が20ドルだったのは痛かったぞ。その日はバンコクで一泊し、翌朝ホテルの前でタクシーを拾う。空港まで 350バーツだというので「バーツの持ち合わせがない」と財布の中身を見せた。運ちゃんはその中にあったドル紙幣を目ざとく見つけ、空港で5ドルを両替すればいいと提案し、運賃も300バーツに負けてくれた。空港の銀行で5ドル出すと、両替は最低10ドルからだと言う。仕方なくボロボロの5ドル札をもう一枚差し出すと、古いお札は受け取れん、とぬかす。きしょーめ、ビンボー人だと思ってなめんなよ。今度は1ドル札を5枚取り出すと、それも駄目だと拒絶! ふぎーっ! どないせいっちゅうねんっ!! 結局、最初の5ドルだけ両替してもらった。(なら、最初からそうしろよな)
 ドンムアン空港の出国税は250バーツ(現在は500)。出国審査を終えるともう外国の通貨は必要ない。手持ちのお金を日本円に換金し、この時点で所持金が1000円と9ドルと5・5バーツ。  
 なんとか帰国して自宅にたどり着いた時の所持金は1133円だった。昔、「がっちり買いまショー」というテレビ番組があったが(知ってるか?)、その海外版があったとしたらわしの優勝やあ~っ! 
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  ドンムアン空港の出国税は平成25年(2013年)に800バーツに値上がりしたそうです。過去の海外旅行記なので過去はともかく、現在は各種料金の値上がり等の価格の変動はあり得ますので、価格等の詳細は各自で調べてもらいたい。
 1990年代から平成10年代の時期には、デジタルカメラ銀塩カメラを駆逐し始めたような時期でした。 何度もお伝えしているように、これらの旅行記が作られたのは、1990年代から平成10年代の時期です。平成10年代後半には、デジタルカメラは一般的になってきていて、2010年代には、カメラ店(家電量販店に切り替った)や現像や焼付けを請け負うお店(自宅内部のプリンターや自動販売機に切り替った)が激減してきましたね。
 国内であれ海外であれ旅行には幾ばくかのお金が必要だから見積もりをしないといけませんね。今回のように外国人観光客相手に政府も事実上の入場料金を徴収しています。
 シャンプーもリンスも最近の日本では、¥100ショップで販売されていますね。ブリティッシュコロンビア州では店の商品全てが一つにつき$1.40の均一価格のお店が営業してたのを連想しました。
 特筆すべきは、心優しき日本人。 普通、一万円という金額を見ず知らずの他人に貸したりしません。 全く、論外な要求をしていましたね。これは、お笑いエッセイで無ければ非難されている旅行記であろう。 
 最近では、一時期とは違いテレビであっても金満旅行ばかりか貧乏旅行で注目を集めている場合がありますね。だけど、一般人であっても海外から帰国した時であってもある程度の金銭的な余裕は不可欠で、空港から自宅の交通費も考慮した上での行動が必要です。旅に行くのは自由だが他人に迷惑をかけないようにしないといけません。私がブリティッシュコロンビアへ旅行に行った時もそれなりの金額が必要でしたが予算の範囲内で済ませました。
 余談ながら、近畿地方の私鉄沿線の方々に限っては安値で関空に行き来が行える特殊乗車券が販売されてます。詳しくは各自でお調べください。
 インターネットである程度は過去のテレビ番組についても発表される時代になってきましたね。昭和30年代から昭和50年に至って放送されたテレビ番組を知る人は少なくなっているかも?
 何度も書き伝えてますが、為替レート、出国税等の金額は当時の状況であって現在の為替レートではありません。念のため。
 そういえば、地味にカンボジア製のアパレル商品や靴が一般的に販売される時代になってきましたね。あなたが保有してる衣服はC国製ことカンボジア製かもしれません。私はカンボジア製の衣服だけでなくカナダ製の衣服も保有してます。


カンボジア再び その1
at 2005 10/21 00:09 編集

Conquer your passion and you conquer the whole world.
己の欲望を征服できれば全世界を征服できる。(ヒンドゥーの諺)
暑さで眼が覚めた。天井の扇風機が視界に入る。ここはどこだ? と覚醒していない頭で一瞬、考える。少しづつ脳が現実を把握し始める。シアヌーク通りはプノンペン市内でも最先端の通りだ。独立記念塔を中心に伸びるこの通りにはカフェ・バー、ハンバーガーショップ、ディスコ、日本料理店、スーパーマーケット、ベトナム航空の事務所等が点在する。二日前に国内線でシェムリアップまで飛び、アンコールワットやアンコールトムを見てまわった。そんなに散財したつもりはなかったのに、所持金がほとんどないことに遺跡の中で気がついた。
財布には日本の硬貨が二、三千円あったが、紙幣でないとリエルに両替もできない。僕は一日や二日なら飲まず食わずに野宿なら辛抱できるのだが、昨夜のホテル代や現地で雇ったバイクタクシーのソーウォッポに払うガイド料もない。ツアーで来ている日本人観光客に両替を頼もうかと思ったが、それもためらわれた。バックパッカーは堅気のツーリストを恃んではいけないという矜持みたいなものがあった。と言えば聞こえはいいが、要するに観光客の立場に自身を置き換えてみれば、人品卑しきバックパッカーが近寄ってくれば、これはと身構えるのが当然だろう。結局、同じゲストハウスに投宿していた二人組の日本人旅行者を見かけ、地獄に仏とばかりに両替を持ちかけた。武士は相身互いですからと快く両替してもらったばかりでなく、夕食までご馳走になってしまった。四十代と思しき二人組の年長の人は 「私もバングラデシュでお金がなくなったことがありましてね。気持ちはよくわかりますよ」と言われた時には、自分だったら見ず知らずの他人にこんなにもできるのだろうかと反省しきりであった。(続く)

管理人マーキュリーマークの感想文と皆様への伝達事項

海外旅行というものは基本的に贅沢で自己責任で行う娯楽ですが散財したつもりはなくても散財したことには変わりありません。「支払った。」は「支払った。」ということです。実は、海外で販売されてる日本製の商品は日本よりも高値の場合が多いのです。
ちなみに、平成10年代の海外旅行記ですので平成20年代にはドリアン長野はすでに40歳ではなく50歳を過ぎてます。
 皆さん、もしも、海外旅行されるとしたら日本国内で過ごす一日当たりの生活費よりも高いお金を支払う気持ちで望みましょう。無論、(日米両国が)民主党政権時代(平成20年代初期)と比較して円安になったことも影響してます。
 外貨は外貨。この海外旅行記を読まれた人はそれなりに考慮された上で行動されるとは思います。私はブリティッシュコロンビア州の有人の両替所に入りはしたが両替は控えておきました。代わりにATMで済ませました。「日本で当初予定してた金額よりも多めのカナダドルの両替をして現金を保有しておいても良かったかな?」とは考えてはいますがとりあえず、何とかなりました。
 私がブリティッシュコロンビア州を旅行中において日本人観光客や現地在住の在外邦人には毎日のように出会いました。日本人と分かった理由は、会話してる内容が日本語だけでなくgood morning.と挨拶した後の発音でRの巻き舌を全然してないから日本人だと分かった事です。
性格も善悪に分かれました。挨拶をして良い会話が行えた善人だけでなく、蔑みたくなる無礼な悪人もいました。
 今回の海外旅行記は、幸せな人のお話です。 

カンボジア再び その2

at 2005 10/24 23:05 編集

彼らに礼を言って別れたあと、近くの広場に蝟集している屋台へ出かけた。昼間その屋台の一つで食事をした。母娘でやっているらしい。清潔とはいい難いが、ハエを追い払いながら食べたその小松菜と豚肉の炒め物に大根のスープはしみじみとうまかった。
「チュガン」(おいしい)と言うと、母親がにこっと笑う。外国人は珍しいのだろう、しきりに水を持ってきてくれたり、懸命にハエをうちわで追ってくれたり、おかわりはいらないかと何度も訊いてきた。その屋台に行ってみると、その時の娘が昼間とは見間違うほど化粧をし、着飾っている。勧められるままにフルーツと生ジュースを飲み、片言のクメール語で話した。近くの屋台からも人が集まってきて話がはずんだ。が、それがいけなかった。話題も尽きてしまったので、切りのいい時間に腰を上げる。何十メートルか歩くと、もう辺りは漆黒の闇だ。光の無い闇がこんなにも恐ろしいものだとは久しく思ってもみなかった。後ろを振り返ると屋台の一角が亡霊のように闇の中に浮かび上がっていた。僕は逃げるようにゲストハウスに帰った。
未明に腹痛が来た。痛みは間欠的に激しさを増してくる。そのまま、まんじりともしないで耐え、夜が明けるのを待ってゲストハウスを引き払う。地元民と白人バックパッカーでひしめくスピード・ボートに乗り込み、五時間半かけてプノンペンに戻った。船着き場からバイクタクシーでこのシアヌーク通りにある「レックス・イン」にチェックインした。部屋に入るとベッドに倒れ込む。こんなひどい下痢はインド以来だ。
「なんでこんな国に来てしまったんだろう」
天井を見つめながら自問してみる。すると突然、記憶の彼方に押しやっていたジョン・ダンの詩が天啓のように脳裏をかすめ、それは次第に実体となって現われた。
「奇なる眼を持ち生まれしならば
視えざる物も見にいくべし
一万の昼と夜を越え
時が君を白髪に変えるまで」
ベッドの上で苦笑する。僕は視えざる物を見ることを欲して、こうしてここまでやって来たのではなかったのか。体は重い。食欲は無い。近くにあるスーパー、「TOKYO INTERNATIONAL」でパンとジュースとミネラルウォーターを買ってはいたが、固形物はのどを通らない。それでも気力を振り絞り、ベッドから起き上がった。限られたわずかな滞在時間である。カンボジアまで来て一日中寝ているわけにはいかない。ふらつく足でホテルを出ると、通りは血液が沸騰しそうなほど暑かった。独立記念塔からノロドム通りを三キロほど北上するとワット・プノンという寺に突き当たる。この寺は十四世紀末にペン夫人が建立し、それがプノンペンという名前の由来となった。手前の道を右折すると、トレンサップ川沿いに中央郵便局がある。ここで日本の友人に手紙を出すために切手を買う。隣の窓口では葉書の束を持った中年の日本人女性が、まさに必死という感じのクメール語で職員としきりに何かを交渉している。ちらっと盗み見ると、日本語で書かれた年賀状だった。声を掛けようと思ったが、言葉を飲み込んだ。彼女がどのくらいの年月をプノンペンで過ごしているかはもちろん知らないが、僕には彼女が何かと闘っているように思えたからだ。僕がいくら何かを見ようと血眼になっていたとしても、物見遊山の旅行者に過ぎない。僕はただ通り過ぎて行くだけなのだ。(続く)
OASIS」の「ROLL IT OVER」を聴きながら
管理人マーキュリーマークの感想文と皆様への伝達事項
いきなりですが、日本で食べる食事と海外で食べる食事はやはり衛生環境が全く違ってくるようです。いわゆる先進国での食事はまだしも、そうでない国での食事は良くない結果が待ち構えてるそうです。胃薬が本当に必要なようです。実は、ドリアン長野ではないのですが、ある日本人男性(某Sさん)が商用で台湾に赴いた時にお腹の具合が悪くなったそうです。
又、日本国内でも一部の町だけにおいて街灯が多いにしても夜間は基本的には闇という概念を持って行動しないといけません。LED懐中電灯が平成20年代になって市販されるようになりましたから今後はそれを保有して歩行されるのも悪くないと思います。無論、平成10年代でも旧来型の懐中電灯は、市販されていた。
 私がブリティッシュコロンビア州に行った時も屋台は多かったが購入は見送りました。 ブリティッシュコロンビア州メトロバンクーバーでは人通りが多い表通りと関係者以外立ち入り禁止を感じさせる裏通りで道の明るさが全く違い前者は明るいが後者は暗かったです。
 ブリティッシュコロンビア州にチーズケーキエトセトラというお店が営業してます。基本的に夜間(現地時間)だけ営業してます。バスから降りて探す時も一種独特な明るさの中を探してました。店内もやや暗めでありましたが、従業員ばかりかお客さんが多く不思議なお店でした。店の外側には人通りが少なかったです。初回はバス停で現地在住の日本人女性3名と出会えました。二回目は、ホテルから歩いて往復しました。途中で高さ27.4メートルの橋を歩行したのは危険だったかもしれませんので皆様には推奨しません。
 店によって違うとは思うのですが、海外の夜の飲食店は日本国内とは違う怖さがあるようです。ただ、日本と海外の時差があって日本人にしたら日中の時間帯が海外では夜であったりしますから複雑な思いです。
カナダではサマータイム(日本との時差16時間)と冬時間(日本との時差17時間)を導入してるので一時間前後するがブリティッシュコロンビア州の午後7時から午前1時は、日本では午前11時(もしくは正午)から夕方五時(もしくは午後6時)になります。営業時間の概念は日本と海外は大きく違います。海外の飲食店の場合は閉店時間間際に行くと、サマータイムと冬時間の切り替えで失敗するかもしれないので余裕を持って赴くようにしましょう。

カンボジア再び その3

at 2005 11/02 23:09 編集

プノンペン滞在の最後の日。午後にはバンコク行きの便に乗らなければならない。もうこの国には再び来ることはないかもしれない。そう思った僕はこの街に最後の別れをしようと、「キャピトルゲストハウス」へと足を向けた。市内を南北に貫くメインストリート、モニボン通りは多くのホテル、旅行会社、レストラン等が立ち並び、ひっきりなしに流れる車とバイクの喧噪にあふれている。文化芸術省を右手に見て左折すると、バックパッカー御用達の「キャピトル」がある。シャワーとトイレ共同で三ドルで泊まることができる。一階には吹き抜けの食堂があり、日本人や欧米人旅行者のたまり場となっている。
「ハロー、キリングフィールドに行ってみないか。往復五ドルでどうだ?」
バイクタクシーのにいちゃんが声をかけてくる。
「友人を待ってるんだ」
うっとうしくなった僕はそう言って彼を追い払い、外のテーブル席に腰をおろした。この周辺は日没になると強盗が多発し、治安が悪い。それにもかかわらず、ここには様々な人間が集まってくる。旅の情報を求め、たむろする者。それを目当てに客引きをするバイクタクシー。アジアを放浪したあげく、「キャピトル」の狭く汚い独房のような一室でずるずると何か月も沈没する者もいた。そういった連中は一様に目つきが悪かった。社会に適応できず、日本を飛び出しアジア的寛容さに安住し、各地を放浪する。旅が五、六年と続くと(実際には十年以上旅を続けている者もいる)、それはもはや旅とは言えなくなる。非日常が日常となり、感覚が麻痺し、ついには摩滅してしまう。そうなれば日本に帰ろうと思っても帰れなくなる。いや、帰りたいといった気持ちさえ起こらなくなるといった方が正しい。別に帰らなくても本人の意志であれば他人が口を挟むことではないし、それはそれで僕なんかは尊敬の念さえ起きるのだが、この「キャピトル」にたむるする連中は重い沈殿物の如く怠惰で人生の貴重な時間を無為に食いつぶしているように思えた。(続く)

管理人マーキュリーマークの感想文と皆様への伝達事項
人によっては日本に生まれても日本社会に適合が行えなくて海外移住を決断した人々がおられます。中には長期滞在を選んだ人々も多くおられるようです。一年の内、300日以上を海外で過ごし日本でないと行えない用事を済ませる時だけ帰国する人もおられるそうです。
物価が高い日本よりも海外で生活して楽しい人生を過ごされてるようですが一方でドリアン長野が指摘したように単なる怠慢な人もおられるそうです。
 カンボジア国内を終の棲家にした日本人もおられるようですね。


カンボジア再び その4

at 2005 11/11 23:21 編集

頭上に大きな盆をのせ、そこにピーナッツの袋を山ほど置いた物売りの少女が入ってきた。テーブルの間をまわりながら声をかけてゆく。一人の白人が立ち上がって1ドルを少女に渡した。少女はピーナッツの袋を渡そうとするが、彼は「いいよ、そのお金は取っておきなさい」と言うように頭を振る。僕は通りをぼんやりと眺める。バイク、屋台、物売り、往来で遊ぶ子供たち、賭けトランプに興じる男たち、それを店の前に出した椅子に座って日がな一日、眺めている老人。こんな光景はアジアのどの街でも見た。カルカッタでもホーチミンでもバンコクでも上海でも。喧噪と倦怠。無気力と熱気。全く暑い。インドネシアの強烈な陽と熱風を受けて座っていると、アジアの大地に溶けていくような、怠惰な世界に埋もれていくような、そんな自虐的な感覚に引きずり込まれるような昼下がりの。リヤカーを引く人夫。午睡する褐色の肌。暑い。行き来する褐色のカンボジア。渦巻き、交差する人、人、人。眼を閉じると旅の断片的な思い出が浮かんでは消える。
たとえば、プノンペン市内は街灯が極端に少ないので、午後六時にもなるとバイクや車のオレンジ色のテールランプが通りに浮かび上がる。それは息を飲むような幻想的な美しさであり、僕は黄昏が闇に変わってしまうまで飽かず眺めていた。
たとえば、半日、市内の観光案内をしてくれたバイクタクシーのダリー。イスラム教徒の彼はラマダーン中だった。年に一度、一か月のラマダーン期間は日の出から日没まで飲食はおろか、唾を飲み込むことも禁じられている。ダリーは日中の暑さの中でひっきりなしに唾を吐きながら市内を案内してくれた。二人で小高い丘にあるワットプノンに登り、そこから市内を一望した。ダリーは言う。
「UNTAC(カンボジア暫定統治機構)ができた頃はすごかった。アメリカからヨーロッパからアジアからいろいろな人間がやって来た。通りはそういう人たちでいっぱいだったよ」。僕は国内外の政治的な思惑に翻弄されたこの国の悲劇を思いつつ、通りをあふれる彼らの姿が目に見えるようだった。(続く)


管理人マーキュリーマークの感想文と皆様への伝達事項
平成10年代のカンボジアの風景について連想する人もおられるかもしれません。写真の発表は行えないがドリアン長野が発表した海外旅行記を読むと、まるで目の前がカンボジアでその風景が存在するかのようです。
ピーナッツやピーナッツバターはおいしいから私は好きで頻繁に食べます。ピーナッツバターが人口ダイヤモンドの材料になるのも有名なお話ですね。白人男性が$1をピーナッツ売りの少女に提供したのは悲劇から立ち直る為の手助けがしたかったからに他ありません。
オレンジ色の光を発するLED等は電球色という名称で日本で販売されてます。
 今は平和を取り戻したカンボジア。人々は平和を享受してるようです。無論それは、UNTAC(カンボジア暫定統治機構)が存在し国の再建を決断した人々がいるから行えることです。権利と責任は存在する。そういえば、最近はカンボジア製の衣服が販売されるようになってきました。
厳しいようですが内戦は収まったがカンボジアタイランドの国境紛争が平成20年以降発生していて多くの人々が懸念してるのも現実です。世界遺産プレアビヒア遺跡を巡る争いは深刻です。

カンボジア再び その5



at 2006 01/07 01:21 編集

たとえば、プサートゥールトンポン。通称「ロシアンマーケット」と呼ばれるこの骨董市場。一歩足を踏み入れると陽の射さない暗い市場に所狭しと骨董品の店が並ぶ。中は入り組んでいて迷路のようだ。大半は偽物なのだが、無数の金銀製品、民芸品、陶磁器等が無言の案内人のように招き入れる。奥へ進んで行くほど外世界の喧噪は消え、どこをどう歩いているのかも分からなくなる。店先にいる老婆たち。何百年も前からそこに居るかのように泰然と僕を見据える。僕は人が営み、延々と続く生活に想いを馳せ、慄然となる。
たとえば、アンコールトムで遭った子供たち。少年は勝手にガイドを始め、少女はフィルムやガイドブックを売りつけようとする。どこの遺跡に行っても子供たちは狙撃兵のように次から次へと姿を現わす。十二、三歳くらいの少年がとても流暢な英語で説明を始めた。プノンペンは英語熱が盛んで英語塾が乱立しているのだが、それにしても彼の語学力は驚異的だ。生きるために、家族に食べさせるために必死で学んだのだろう。ガイド料として二ドルを渡すと、「ありがとう」と受け取り、消えるようにどこかへ行ってしまった。
そして元高校の校舎を転用したトゥールスレン博物館。かつてポルポト政権下に約二万人が収容され、生還できたのはわずかに六人だけだという。反革命分子と見なされた人々は家族とともに捕われ拷問を加えられた後、処刑されていった。文革と同様、多くは罪なき人たちであり、子供や老人、女性も数多く含まれていた。ポルポトの残虐行為を伝える博物館として一般公開されている。独房にはマットのないベッドが置かれ、タイル張りの床には血痕が今でも染みとなって残っている。あとは排泄用の小さな箱があるだけで、犠牲者は手足を鎖で繋がれ殺されていった。別の校舎、C棟の一階と二階には窓のない部屋に煉瓦を無造作に積み上げられて作った一畳ほどの独房がある。水も食事も与えられずに閉じ込められた彼らは何を思い、死んでいったのか。死の恐怖や苦痛とどのように闘ったのか。もし彼らが僕だったら? 彼らはあの時代にカンボジアに生まれ、僕は日本に生まれた。ただそれだけのことだった。僕と女性の係員の他は見学者は誰もいない。あたりは気味が悪いほど静まりかえっている。B棟にはおびただしい数の顔写真が壁一面に貼付けてあった。処刑前に収容者を撮影していたのだ。何のために死にゆく者たちの記録を残していたのかポルポトが死んだ今となっては謎のままだ。どれも恐怖に引きつったという顔ではなく、全てを諦めたような、諦観したような表情だった。
案内の女性は大学生かと思っていたが、高校生だそうだ。
「大学には行くつもりですか」と聞くと、「いいえ」とだけ言って悲しそうに顔を伏せたが、最後に「カンボジアは暗黒の時代を経て、復興に向かって進んでいます。未来は明るいでしょう」と答えてくれた。
晦日の前日にぶらぶらと歩いていると、学校に突き当たった。校庭には制服を着た何百人という子供たちが集まっている。小学生から高校生まで同じ校舎で授業を受けているらしい。少しすると彼らの下校時間にぶつかった。バイクで帰宅する高校生やシクロに乗って帰る小学生たち。屋台で買い食いする子供たち。その熱気を捉えようと夢中でカメラのシャッターを押した。
「裏(うち)に向かい外に向かって逢著せば便(すなわ)ち殺せ
仏に逢うては仏を殺し
祖に逢うては祖を殺し
羅漢に逢うては羅漢を殺し
父母に逢うては父母を殺し
親眷に逢うては親眷を殺して
始めて解脱を得ん
物と拘(かか)わらず透脱自在なり」
臨済宗 示衆の章)
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どっちかと言うと真面目なお話から始まった今回の海外旅行記。発表されたのが平成18年ですから平成10年代のカンボジアの情勢を発表されてますね。狙撃兵は基本的には隠れた上で敵兵を射殺するから事情を知ってる人が読むと状況の認識が行えていないから爆笑する人もいるかもしれません。それはともかく、あのポルポトが行った悪事は同じ人間とは思えません。平成20年代になってカンボジアについてのテレビ番組等の放映回数は平成10年代と比較して激減したと思いますが今でも多くの人々に悲しみを与えてます。昨今では、カンボジア製の衣服が多く販売され日本も輸入してますから経済復興は成功してると考えます。日本も今後、無秩序にならないような社会を形成し維持継続する必要がございます。
 平成10年代の小学生達は今、大半が大人になってますね。

前作 カオサンの大晦日 (*1) (*2)

*1 第14話がカオサンの大晦日で第15話がカンボジアでしたので再編集を機会に動画を追加した上でカンボジア旅行記を一元化しました。

*2 カンボジア再び その1の前作は上海日記最終日です。

次作 フィリピン旅行記 (*3)

*3 カンボジア~ (リターンズ)の次作は前述したフィリピン旅行記ですが、カンボジア再び その5の次作は、ビルマの休日その1です。
 

 回顧を兼ねた書評
 僕の初海外旅行は26歳の時のインドだった。
 当時往復チケットは年末料金だったので30万した(泣)。
 行く前は椎名誠の「わしもインドで考えた」を熟読。
 インドでは尻の毛まで抜かれるほどぼったくられ、下痢と発熱で散々だったけど、
 それからはリーマンパッカーとして主にアジアをふらふら。
 アフリカは遠すぎて行けなかった。新婚旅行もバックパックでバンコクと香港へ。
 香港では雑居房のチョンキンマンションで二泊し、妻はぐったりしていた。
 バンコクでは安宿と高級ホテルと泊まり歩き、マリオットのプールで
 溺死しそうになったのは今ではいい思い出だ(嘘)。
 旅も好きだが、旅行記も好きだ。
 この本は主にアフリカ旅行のエッセイだが、面白い。
 何よりも文章がうまい。
 奥さんとのなりそめを綴った「追いかけてバルセロナ」なんか疾走感があり、
 一気に読め、感動的でさえある。
 朝の通勤の地下鉄で読んでたけど、日本にいながら気持ちはバックパッカー。
 旅の本もいいけど、また出かけたいなあ。