テーメー・カフェ シリーズ(ヤフーブログ版)

NO2 テーメー・カフェ
2001年の1月、ソイ・カウボーイに行こうと友人とスクンビットを歩いていたら、怪しいネオンサインに縁取られた看板が目に入った。その看板に書かれていた文字を読んで私は思わず息を飲んだのであった。「テーメー・コーヒーハウス」 思えばこれがテーメーに集う怪しくもしたたかな人々と私とのハートウオーミングな交流の始まりであった(嘘)。ここがテーメーかぁ~。私がその名を知ったのはクーロン黒沢氏の「バンコク電脳地獄マーケット」という本だ。その名も世界最強の援交カフェ。ジャングルの奥地でアンコールワットを発見した時のフランス人探検家の心境もかくやであったであろう。地下へと降りる私の心拍数は200ぐらいになっていた。この扉の向こうにはいかなる世界が待っているのか。めくるめく、快楽のバビロンか、はたまた魑魅魍魎の棲むブラックホールか。神様、私をお助けください。お母さん、先立つ不孝をお許しくださいっ。ええいっ、ままよっ、ぱぱよっ。 ............店内は薄暗く、楕円形のカウンターを取り巻くようにボックス席があり異様とも思える男女がゴキブリのように密集している。私の頭の中にはワイドショーでお馴染みの「24時間潜入ルポ、私は見た! バンコクの黒い援交カフェの実態!!」という言葉が浮かんだ。店内の人たちの刺すような視線が痛い。これって場違いってことじゃあ......。バカヤロー、ふざけんな~、べらんめ~、こちとら江戸っ子で~い(嘘)。矢でも原爆でも持ってきやがれってんだい。.....という言葉とは裏腹に店内を一周した私たちは異様な雰囲気に恐れをなし、そそくさとテーメーをあとにしたのであった。しかし、気になる。ここで引き下がってはジャーナリストとしての使命は果たせん。(誰がっ?!)私たちは再び潜入を試みた。暗い店内を今度はゆっくりと観察するように歩く。女はタイ人かアラブ人、男は白人と日本人らしき人がちらほら.....。ピーター・バラカン似の男と目が合い、その男が話しかけてきた。「僕はアメリカ人だけど、韓国で働いてて、休暇になるとここに遊びに来るんだ。ところで、彼女のカメラ危ないよ」と友人を指差す。彼女は首からカメラをぶら下げていたのだった。「この前、店内で写真を写したヤツが袋だたきになったからね」なっ、なんだあ~? 刺すような視線はそのせいか。そういやあ、その昔、西成暴動の写真を撮ってたらいつのまにか100人くらいの労働者に囲まれ、殺されるかと思ったもんなぁ~、と往事を偲びつつ(偲ぶなよ)、再びテーメーをあとにしたのだった。
半年後、私は別の友人とテーメーにいた。人生はどこで何が起きるか分からんもんである。っていうか、常夜灯に群がる蛾のように怪しい人間は怪しい場所を好むもんである。あいかわらず満員電車なみのゴキブリの群れだ。カウンターに座ると、ぬらりひょんのようにどこからともなくウエイターが現われたので、50バーツで飲み物を注文する。一旦、注文すれば朝までねばってもノー・プロブレム。援交相手に何時間くっちゃべっててもOKだ。これってマニアにはめちゃくちゃおいしいんじゃないのかしら、オホホ(私にはよく分からんが)。
その時、友人(34歳。離婚2か月目)がすくっと立ち上がってこう言ったのである。「私、客がつくかどうか試してみるわ」。 (続く)

NO3 続テーメー・カフェ
<前回までのあらすじ>
天使の街、バンコク。ここに世界最強のコーヒー・ショップがあると聞いた「私」は現地に赴いた。そこであやうく生命の危機にさらされたが、すんでの所で窮地を脱する。臥薪嘗胆で知力、体力を充電した「私」は再びバンコクへ飛ぶ。果たして「テーメー」の黒い野望を阻止し、打ち砕くことができるのであろうか。雌雄を争う戦いが今まさに始まろうとしていた......。
「私、客がつくかどうか試してみるわ」こう言うと彼女はボックス席に移った。一人になると隣のおばちゃんが話しかけてきた。ふくよか、というよりも太った近所のおばちゃんという感じだ。名前を教えられたが覚えてないので風貌を思い出し、麻原彰子とする。「イサーンからバンコクに出てきて家族6人、アパートのせっまい部屋に住んでるんだよ。ビンボーは嫌だね。仕事は楽じゃないし。あたしも43だからね、もうおばあさんだよ」と彰子さんは切々と訴えるのである。そうか、肉体労働はきついだろう、っていう前に出動要請があるのか? おばちゃん。ボックス席の友人を見ると、すでに白人となにやら話しこんでいる。ここは入れ食い状態なのか? 何を話してるのか気になるぞ。こっちはこっちで入れ代わり立ち代わりタイ人が話しかけてくる。彰子さんが言うには、みんなイサーン出身の仲間なんだそうだ。(調子にのってマーブンクロンで作った名刺をばらまいたが、大丈夫か? )その中の一人は「私はいろんな人と話すのが好きだし、英語も勉強できるからテーメーに来てるの」と遠い目をして言った。(そっ、そうなのか? よく知らんがそれは違うと思うぞ。ひょっとしてエイ○に脳が犯されているのか?)そのうち、友人がもどってきた。「あの人、イギリス人なんだって。なんだかインテリっぽくてさ、この国の教育問題とかを熱く語ってきてん」 何い~っ、教育問題だとぉ~。そんな話ならタマサート大学でも行って、学生とでもしやがれっ。偽善者め。ここは黒いテーメーやぞっ。テーメーにインテリなんぞ、時間厳守のタイ人やお金に淡白なインド人やプレイボーイのラオス人と同じくらいおらんのじゃー!(偏見か? しかし頼むからワシの思い入れを壊さんでくれ~い。テーメーはいつまでも黒いテーメーであって欲しいんじゃ~い)
「あんた、どこのホテルに泊まってんだい?」いきなり彰子さんが聞いてきた。「あの....グレースですけど.....」 「部屋でマッサージしてあげるよ。ルームナンバーは?」 「いっ、いや、今日は友だちも一緒だし、あっ、そうだ、明日もう一度来るから、その時に.....」 「それじゃあ、待ってるよ」 すまん、おばちゃん。我々は明日の昼過ぎの便で帰国してしまうのだ。いくら待ってても来ないぞ。私は心の中でおばちゃんに手を合わせた。今度バンコクに来た時はテーメーに寄らせてもらうぞ。マッサージは受けないけどな。おばちゃんをよく見ると、慈母のごとく見えんでもない。その長い人生にはつらい出来事もたくさんあっただろう。我々は二人がかりでおばちゃんの肩を揉んでやった。誰かテーメーに行ったら、彰子おばちゃんの肩でもマッサージしてやってくれ。喜ぶぞ。マッサージを受けたら、もっと喜ぶと思うけどな。

#7 テーメーその2 

 予算の都合で、いつも泊まる「グレース・ホテル」ではなく、近くにあるソイ1の「ストリート1・ロッジ」に泊まった。それでもツインで550バーツだ。私の感覚では500バーツを超えると立派な高級ホテルだ。しばし、宿泊するかどうか迷う。それでもここはレセプションの兄ちゃんの愛想がいいのでお薦めだ。ホテルに戻ってきた時、「あけましておめでとうございます」と言われた。日本人の宿泊客に教わったらしい。「地球の歩き方」に載っているので日本人が多いらしい。まっ、私もそれを読んで泊まったんだけど。
ホテルの近くの歩道橋のたもとにゴミ捨て場があるんだけど、その隣にホームレスが座って、物乞いをしてるわけさ。もう、よく見ないとゴミだか人だか分からないって感じ。そこへアラブ人のオジさんが通りがかりに「ライス、ライス」と言いながら、紙袋を置いていった。私はちょっと感動したね。いいことをしてやる、って態度じゃなくて、ごく自然な感じだったもんね。なるほどっ、それがイスラム教のいう、喜捨ってやつだなっ!アラブ人にもいい人はいるんだなとシミジミ.....。言っとくけどな、これって偏見ちゃうぞ。グレースにいるアラブ人を見てると、みんな悪人に見えてくるんじゃ~い。(顔も暑苦しいしな) それが偏見だと言われると返す言葉もないがな。とにかく心暖まる、いい話しだ。うん、うん.....。って、今回はそういう話じゃな~いっ! 性懲りもなく、テーメーネタ第二弾だっ! 全然、心暖まらないぞ。当たり前だがな。
テーメーに入ると、私は空いている席を探してカウンターに座った。横を見ると、黒ずくめのおばあさんが座っている(注:バンコクでは、その方面の職業婦人の方の服装は黒です)。
う~ん、この人はまさか.....。いぶかし気に見ていると、彼女が話しかけてきた。 「あんた、どこから来たんだい?」 「日本です」 「日本人かい。それなら、ほら、あそこに座っているスズキはもう何年も前からずっと、ここに通っているよ」 
我々のななめ後ろのソファーには、何人もの娼婦を侍らせた、スズキと呼ばれた男が座っていた。常連か。スズキ、エイズで死ぬなよ。 
「あたしはスージーだ」 すっ、すうじい~? 「客はとらないよ。客のくれるチップで生活してるのさ」 なるほど、納得。で、失礼ながらお年を聞いてみたが、「あんた、そんなこと、こんな場所で聞くもんじゃないよ」と一蹴されてしまった。すんまそん。だが、おそらく70代であろう。スージーはテーメーの最長老であり、娼婦からはママと慕われ、頼りにされるボス的存在であった。スージー、あんたに出会えて光栄だ。私は思わず名刺を渡してしまったくらいだ。スージーは顔見知りの白人がやって来ると急いで駆け寄り、話しかけたり、ビールの注文を取ってきたりしていた。酔っぱらって大声でしゃべる客の相手もしていた。スージー、生きていくってのは大変だなぁ。やがて、女の子が隣に座り、笑いかけてきた。  
「私、クンっていうの。アユタヤから来たの」 すかさずスージーが口を挟む。 「その娘はグッドだよ。ベリー・グッドだ」 あんたは商品の売り込みまですんのか? これ以上、長居しているとむりやり売りつけられそうだったので、そそくさと退散した。それにしても、私もいつかスズキみたいに言われてみたいもんだ。 「あの日本人、常連だよ。テーメーじゃあ、知らない者はいないね。初めて会ったのはあたしが70の頃だったね」ってな。それまでスージー、長生きしろよっ。なんだかんだ言っても結局、最後は心暖まる話になっちゃったな。(なわけねーだろっ!) 

皆様への伝達事項
ドリアン長野が2010年以前に作成し発表した海外旅行記ですので現在とは状況が異なる部分が多々あるかと思います。影響を与える事が出来ても責任は取れませんので参考にしてもらう分には構いませんが模倣は不可能になってるやもしれません。
皆さん、三種類の海外旅行記を一本化しました。
茶店が海外にあって行ってきたといったタイランド旅行記です。私もブリティッシュコロンビア州の(カナダ時間ですが)夜だけ営業してるチーズケーキエトセトラに行ったから大きな事は言えません。
ホテルは日本にいる間に予約しておきましょう。
タイランドのスージーさんは今でもご存命なのであろうか?

管理人 マーキュリーマーク
 

 回顧を兼ねた書評
 僕の初海外旅行は26歳の時のインドだった。
 当時往復チケットは年末料金だったので30万した(泣)。
 行く前は椎名誠の「わしもインドで考えた」を熟読。
 インドでは尻の毛まで抜かれるほどぼったくられ、下痢と発熱で散々だったけど、
 それからはリーマンパッカーとして主にアジアをふらふら。
 アフリカは遠すぎて行けなかった。新婚旅行もバックパックでバンコクと香港へ。
 香港では雑居房のチョンキンマンションで二泊し、妻はぐったりしていた。
 バンコクでは安宿と高級ホテルと泊まり歩き、マリオットのプールで
 溺死しそうになったのは今ではいい思い出だ(嘘)。
 旅も好きだが、旅行記も好きだ。
 この本は主にアフリカ旅行のエッセイだが、面白い。
 何よりも文章がうまい。
 奥さんとのなりそめを綴った「追いかけてバルセロナ」なんか疾走感があり、
 一気に読め、感動的でさえある。
 朝の通勤の地下鉄で読んでたけど、日本にいながら気持ちはバックパッカー。
 旅の本もいいけど、また出かけたいなあ。


 管理人マーキュリーマークからの伝言
 上記は、ドリアン長野が令和二年に投稿した内容です。
 令和六年にドリアン長野は親子でケアンズ旅行。