カンボジア旅行記 (ヤフーブログ版)

カンボジア~ その1

 「い、いっでぇ~っ!」 
腹痛で目が覚めた。時計を見ると、まだ朝の5時前だ。シェムリアップのホテルでついに下痢に襲われてしまった。原因は分かっている。昨日、アンコール・トムを見物したあと、ホテル近くの屋台に夕飯を食べに行った。そこは広場に立ち並ぶ屋台のうちの一つで、母と娘が切り盛りしていた。昼に食事した時、彼女たちが親切にしてくれたのだ。広場にはゴミ捨て場もあって、ハエを追っ払いながらメシを食うのも難儀だったがな。行ってみると、昼間は汚れた顔をしていた娘が化粧して着飾っている。夜は営業用の顔か? ともかく、フルーツを何種類かミキサーに入れてジュースにしてくれたので、飲んだ。それがいかんかったようだ。しかし、その時点では大したことがなかったので、早朝にホテルをチェックアウトした。「フリーダム」という名のそのホテルはホテルといっても、ゲストハウスに毛が生えた程度だ。モーニング・コールを頼んだはいいが、部屋に入ってみると電話がない。はて、どうすんだ?と思っていたら、翌朝、フロントの人がその時刻に部屋のドアを叩きに来たのであった。このホテルはプノンペンの空港で客引きのにいちゃんに勧められた。バイクの送迎付きで一泊15ドルのはずなのに、二泊で40ドルだとぬかしやがった。(もちろん30ドルにさせたけど)行きは飛行機だったが、帰りの便が満席だったので、スピード・ボート(という名の渡し船)にした。
 ボートは強盗に襲われるので危険なのだそうだが、地元の人や観光客が大勢乗っていてのんびりしたものだ。5時間かけて、プノンペンに着く。ううっ、いかん、小腸及び肛門周辺に緊急事態発令~っ。船着き場からダッシュでホテルにチェックインして、トイレに駆け込む。軟便というよりは水である。ああっ、フラフラする。3時間ほど横になったが、眠れない。今日はゆっくり静養しようと思ったが、せっかくカンボジアまで来て無為に過ごすのはもったいない。なんとか病身を起こし、ピーピーのヘロヘロ状態でホテルを出て、バイク・タクシーをつかまえた。郵便局に行ってハガキを出してから、情報省に行く。ここでパスポートと写真を提出し、書類に必要事項を記入すれば、ジャーナリスト・カードを5ドルで発行してくれるのだ。その間、わずか10分。カオサンあたりで売っているぱっちもん(ニセモンのことです)とはわけが違う。何に使うのかというと、これが大いに役に立つ。日本に帰国する際、税関職員の目につくようにパスポートにはさんでおくのだ。職員がパスポートをめくりながら言う。 「これは何ですか?」 「ジャーナリスト・カードです」 「すると、今回はお仕事で?」 「ええ、まあ、取材でね」 とかなんとか言って楽しむわけだ、これが。(うっ、書いてて涙が.....)ともかくだなっ、それだけをやり終えるとシアヌーク通りにあるコンビニ、「Tokyo store」でパンとジュースとミネラルウオーターを買い、ホテルに戻った。まだ6時前だが、今日の行動は全て終了! ベッドに倒れ込む。
 それから翌朝までベッドとトイレを20往復はした。食欲はないが、脱水症状になるのでこまめに水分を補給する。買っておいたパンにはとうとう手をつけなかった。下痢と寝不足でヨタヨタと空港までたどり着き、なんとかバンコク行きの便に乗ることができた。その日はカオサンのホテルに泊まり、次の日にマニラ経由でやっと帰国した。その間、ず~っとお尻はピーピーさ。その3日後、仕事から帰ると保健所から留守電が入っていた。
 「あなたの乗っていた帰国便の乗客の中からコレラ患者が出ました。追跡調査をしたいので連絡して下さい」ってな!
 げげ~っ! あわてて夕刊を読むと、インド帰りの男性がコレラを発病。インドで食べた乳製品が原因らしい。今年始めてのコレラ患者。という記事が載っていた。その男はラッシーを飲んで感染したに違いない。そういえば、飛行機の中で私の隣に座った男は青い顔をして機内食も食べずに(私も無理して食べたが、残してしまった。機内食を残したのはそれが始めてだ)、頻繁にトイレに行ってたぞ。うぬぬ、まさか、そやつが.......。
 あくる日、保健所に電話して、体にはなにも異常なし、と答えておいた。「お尻がピーピーですう~」などと正直に申告するといろいろと面倒だ。昔、インドから帰った時に懲りてるからな。 インド旅行記(平成18年に行った特別版)

その日に病院に行って、薬をもらってきた。医者からは「3日以上、下痢が続いたら危険ですよ」とあきれられたけど。薬を飲んだら、お尻は沈静化した。それだけで済んだのならよかったが、私は当時、夜間大学に通っていたのだ。何日間かは薬を飲んでいたのだが、ある日、下痢が再発し講議を休んだ。しかし、その日は期末試験が行なわれていたのだったぁ~っ。知らなかったんだよぉ~。大事な必修科目を落とした私は結局、大学を中退することになってしまったのだ。ううっ、カンボジア~。 

カンボジア~その2 (リターンズ)

アンコール・ワットやアンコール・トムにはカメラのフィルムや絵葉書や笛や扇子を売りつける少女がごまんといる。観光客を見つけると、「お兄さん、お兄さん」と雲霞の如く寄ってくるのだ。彼女たちをかきわけ、かきわけ遺跡を見ているうちに、ふと思った。プノンペン市内ではほとんどお金を使うことはなかったが、遺跡を見るためにシェムリアップに来てからは予想外に散財した。まず、プノンペンからシェムリアップ間の航空券が55ドルに、帰りのスピード・ボート代が25ドル。アンコール・ワットに一回入場するたびに20ドル必要だ。あと、バイクタクシーやホテル代も結構使ったし、出国税もいるから、その分だけ所持金から引いてみるとだな........。があ~ん! 今日のホテル代を払ったらすかんぴんやあ~っ! 困ったあ~、どうすんねん、と遺跡の中で一人、頭を抱える私であった。
 ともかくホテルに戻り、リュックをかき回してみると、ベトナム紙幣が5万ドンほど見つかった。すぐに中国人経営の両替商で両替してもらうと、9ドルになった。う~、ありがたや、これでご飯が食べられる。あとは日本円の硬貨をかき集めると2000円ほどになったが、硬貨は両替できない。日本人のツアー客をアンコール・ワットの前で待ち構えて、紙幣に両替してもらおうか等と思案しながらもう一度ホテルに戻ると、フロントで日本人らしき男が二人、話をしている。そう思うやいなや私は一目散に駆け寄り、彼らに話しかけていた。
 「すいません、日本のかたですか?」 「そうですよ」
 事情を話すと、心良く両替してくれた。のみならず、ホテル内にある中華レストランでご飯をおごってくれ、1万円も貸してくれた。いい人やあ~。聞くと、これからバンコクからネパールへ行き、帰国するのは二か月後だそうだ。あとから考えると、二か月もの間、2000円も使えない硬貨を持ち歩くのはさぞかし邪魔だったであろう。川原様、ありがとうございました。おかげで私は生きて日本に帰ることができました。
 さっそく、二日間世話になったバイクタクシーのソーウオッポにガイド料を払う。大金が入って気が大きくなっていたので奮発して20ドル渡した。とたんに彼の顔がだらしなくデヘヘ~となったので、しまった、払い過ぎたなと思った。初日にガイド料を聞いたら、「It depends on you 」(お任せします) と言われていたので少なかったら悪いと思っちゃうんだよな。敵も人の心理をよく心得てるよ。いかん、いかん。せっかくのお金を大事に使わんとな。それからは出費をできる限り押さえた。ずっと頭を洗ってなかったのでシャンプーを買いにコンビニに行った時も、5ドル(!)もしたので30分迷って結局、買うのをやめたくらいだ。(頭がかゆい)
 だけどプノンペン・ポチェントン空港の出国税が20ドルだったのは痛かったぞ。その日はバンコクで一泊し、翌朝ホテルの前でタクシーを拾う。空港まで 350バーツだというので「バーツの持ち合わせがない」と財布の中身を見せた。運ちゃんはその中にあったドル紙幣を目ざとく見つけ、空港で5ドルを両替すればいいと提案し、運賃も300バーツに負けてくれた。空港の銀行で5ドル出すと、両替は最低10ドルからだと言う。仕方なくボロボロの5ドル札をもう一枚差し出すと、古いお札は受け取れん、とぬかす。きしょーめ、ビンボー人だと思ってなめんなよ。今度は1ドル札を5枚取り出すと、それも駄目だと拒絶! ふぎーっ! どないせいっちゅうねんっ!! 結局、最初の5ドルだけ両替してもらった。(なら、最初からそうしろよな)
 ドンムアン空港の出国税は250バーツ(現在は500)。出国審査を終えるともう外国の通貨は必要ない。手持ちのお金を日本円に換金し、この時点で所持金が1000円と9ドルと5・5バーツ。  
 なんとか帰国して自宅にたどり着いた時の所持金は1133円だった。昔、「がっちり買いまショー」というテレビ番組があったが(知ってるか?)、その海外版があったとしたらわしの優勝やあ~っ! 

管理人マーキュリーマークからの伝言
現在はドリアン長野が執筆した平成十年代と違い増税されたことから実質的に出国税の値上げはあり得るので詳細は各自で調べて下さい。

カンボジア再び その1

at 2005 10/21 00:09 編集

Conquer your passion and you conquer the whole world.
己の欲望を征服できれば全世界を征服できる。(ヒンドゥーの諺)
暑さで眼が覚めた。天井の扇風機が視界に入る。ここはどこだ? と覚醒していない頭で一瞬、考える。少しづつ脳が現実を把握し始める。シアヌーク通りはプノンペン市内でも最先端の通りだ。独立記念塔を中心に伸びるこの通りにはカフェ・バー、ハンバーガーショップ、ディスコ、日本料理店、スーパーマーケット、ベトナム航空の事務所等が点在する。二日前に国内線でシェムリアップまで飛び、アンコールワットやアンコールトムを見てまわった。そんなに散財したつもりはなかったのに、所持金がほとんどないことに遺跡の中で気がついた。
財布には日本の硬貨が二、三千円あったが、紙幣でないとリエルに両替もできない。僕は一日や二日なら飲まず食わずに野宿なら辛抱できるのだが、昨夜のホテル代や現地で雇ったバイクタクシーのソーウォッポに払うガイド料もない。ツアーで来ている日本人観光客に両替を頼もうかと思ったが、それもためらわれた。バックパッカーは堅気のツーリストを恃んではいけないという矜持みたいなものがあった。と言えば聞こえはいいが、要するに観光客の立場に自身を置き換えてみれば、人品卑しきバックパッカーが近寄ってくれば、これはと身構えるのが当然だろう。結局、同じゲストハウスに投宿していた二人組の日本人旅行者を見かけ、地獄に仏とばかりに両替を持ちかけた。武士は相身互いですからと快く両替してもらったばかりでなく、夕食までご馳走になってしまった。四十代と思しき二人組の年長の人は 「私もバングラデシュでお金がなくなったことがありましてね。気持ちはよくわかりますよ」と言われた時には、自分だったら見ず知らずの他人にこんなにもできるのだろうかと反省しきりであった。(続く)

カンボジア再び その2

at 2005 10/24 23:05 編集

彼らに礼を言って別れたあと、近くの広場に蝟集している屋台へ出かけた。昼間その屋台の一つで食事をした。母娘でやっているらしい。清潔とはいい難いが、ハエを追い払いながら食べたその小松菜と豚肉の炒め物に大根のスープはしみじみとうまかった。
「チュガン」(おいしい)と言うと、母親がにこっと笑う。外国人は珍しいのだろう、しきりに水を持ってきてくれたり、懸命にハエをうちわで追ってくれたり、おかわりはいらないかと何度も訊いてきた。その屋台に行ってみると、その時の娘が昼間とは見間違うほど化粧をし、着飾っている。勧められるままにフルーツと生ジュースを飲み、片言のクメール語で話した。近くの屋台からも人が集まってきて話がはずんだ。が、それがいけなかった。話題も尽きてしまったので、切りのいい時間に腰を上げる。何十メートルか歩くと、もう辺りは漆黒の闇だ。光の無い闇がこんなにも恐ろしいものだとは久しく思ってもみなかった。後ろを振り返ると屋台の一角が亡霊のように闇の中に浮かび上がっていた。僕は逃げるようにゲストハウスに帰った。
未明に腹痛が来た。痛みは間欠的に激しさを増してくる。そのまま、まんじりともしないで耐え、夜が明けるのを待ってゲストハウスを引き払う。地元民と白人バックパッカーでひしめくスピード・ボートに乗り込み、五時間半かけてプノンペンに戻った。船着き場からバイクタクシーでこのシアヌーク通りにある「レックス・イン」にチェックインした。部屋に入るとベッドに倒れ込む。こんなひどい下痢はインド以来だ。
「なんでこんな国に来てしまったんだろう」
天井を見つめながら自問してみる。すると突然、記憶の彼方に押しやっていたジョン・ダンの詩が天啓のように脳裏をかすめ、それは次第に実体となって現われた。
「奇なる眼を持ち生まれしならば
視えざる物も見にいくべし
一万の昼と夜を越え
時が君を白髪に変えるまで」
ベッドの上で苦笑する。僕は視えざる物を見ることを欲して、こうしてここまでやって来たのではなかったのか。体は重い。食欲は無い。近くにあるスーパー、「TOKYO INTERNATIONAL」でパンとジュースとミネラルウォーターを買ってはいたが、固形物はのどを通らない。それでも気力を振り絞り、ベッドから起き上がった。限られたわずかな滞在時間である。カンボジアまで来て一日中寝ているわけにはいかない。ふらつく足でホテルを出ると、通りは血液が沸騰しそうなほど暑かった。独立記念塔からノロドム通りを三キロほど北上するとワット・プノンという寺に突き当たる。この寺は十四世紀末にペン夫人が建立し、それがプノンペンという名前の由来となった。手前の道を右折すると、トレンサップ川沿いに中央郵便局がある。ここで日本の友人に手紙を出すために切手を買う。隣の窓口では葉書の束を持った中年の日本人女性が、まさに必死という感じのクメール語で職員としきりに何かを交渉している。ちらっと盗み見ると、日本語で書かれた年賀状だった。声を掛けようと思ったが、言葉を飲み込んだ。彼女がどのくらいの年月をプノンペンで過ごしているかはもちろん知らないが、僕には彼女が何かと闘っているように思えたからだ。僕がいくら何かを見ようと血眼になっていたとしても、物見遊山の旅行者に過ぎない。僕はただ通り過ぎて行くだけなのだ。(続く)
OASIS」の「ROLL IT OVER」を聴きながら

カンボジア再び その3

at 2005 11/02 23:09 編集

プノンペン滞在の最後の日。午後にはバンコク行きの便に乗らなければならない。もうこの国には再び来ることはないかもしれない。そう思った僕はこの街に最後の別れをしようと、「キャピトルゲストハウス」へと足を向けた。市内を南北に貫くメインストリート、モニボン通りは多くのホテル、旅行会社、レストラン等が立ち並び、ひっきりなしに流れる車とバイクの喧噪にあふれている。文化芸術省を右手に見て左折すると、バックパッカー御用達の「キャピトル」がある。シャワーとトイレ共同で三ドルで泊まることができる。一階には吹き抜けの食堂があり、日本人や欧米人旅行者のたまり場となっている。
「ハロー、キリングフィールドに行ってみないか。往復五ドルでどうだ?」
バイクタクシーのにいちゃんが声をかけてくる。
「友人を待ってるんだ」
うっとうしくなった僕はそう言って彼を追い払い、外のテーブル席に腰をおろした。この周辺は日没になると強盗が多発し、治安が悪い。それにもかかわらず、ここには様々な人間が集まってくる。旅の情報を求め、たむろする者。それを目当てに客引きをするバイクタクシー。アジアを放浪したあげく、「キャピトル」の狭く汚い独房のような一室でずるずると何か月も沈没する者もいた。そういった連中は一様に目つきが悪かった。社会に適応できず、日本を飛び出しアジア的寛容さに安住し、各地を放浪する。旅が五、六年と続くと(実際には十年以上旅を続けている者もいる)、それはもはや旅とは言えなくなる。非日常が日常となり、感覚が麻痺し、ついには摩滅してしまう。そうなれば日本に帰ろうと思っても帰れなくなる。いや、帰りたいといった気持ちさえ起こらなくなるといった方が正しい。別に帰らなくても本人の意志であれば他人が口を挟むことではないし、それはそれで僕なんかは尊敬の念さえ起きるのだが、この「キャピトル」にたむるする連中は重い沈殿物の如く怠惰で人生の貴重な時間を無為に食いつぶしているように思えた。(続く)

カンボジア再び その4

at 2005 11/11 23:21 編集

頭上に大きな盆をのせ、そこにピーナッツの袋を山ほど置いた物売りの少女が入ってきた。テーブルの間をまわりながら声をかけてゆく。一人の白人が立ち上がって1ドルを少女に渡した。少女はピーナッツの袋を渡そうとするが、彼は「いいよ、そのお金は取っておきなさい」と言うように頭を振る。僕は通りをぼんやりと眺める。バイク、屋台、物売り、往来で遊ぶ子供たち、賭けトランプに興じる男たち、それを店の前に出した椅子に座って日がな一日、眺めている老人。こんな光景はアジアのどの街でも見た。カルカッタでもホーチミンでもバンコクでも上海でも。喧噪と倦怠。無気力と熱気。全く暑い。インドネシアの強烈な陽と熱風を受けて座っていると、アジアの大地に溶けていくような、怠惰な世界に埋もれていくような、そんな自虐的な感覚に引きずり込まれるような昼下がりの。リヤカーを引く人夫。午睡する褐色の肌。暑い。行き来する褐色のカンボジア。渦巻き、交差する人、人、人。眼を閉じると旅の断片的な思い出が浮かんでは消える。
たとえば、プノンペン市内は街灯が極端に少ないので、午後六時にもなるとバイクや車のオレンジ色のテールランプが通りに浮かび上がる。それは息を飲むような幻想的な美しさであり、僕は黄昏が闇に変わってしまうまで飽かず眺めていた。
たとえば、半日、市内の観光案内をしてくれたバイクタクシーのダリー。イスラム教徒の彼はラマダーン中だった。年に一度、一か月のラマダーン期間は日の出から日没まで飲食はおろか、唾を飲み込むことも禁じられている。ダリーは日中の暑さの中でひっきりなしに唾を吐きながら市内を案内してくれた。二人で小高い丘にあるワットプノンに登り、そこから市内を一望した。ダリーは言う。
「UNTAC(カンボジア暫定統治機構)ができた頃はすごかった。アメリカからヨーロッパからアジアからいろいろな人間がやって来た。通りはそういう人たちでいっぱいだったよ」。僕は国内外の政治的な思惑に翻弄されたこの国の悲劇を思いつつ、通りをあふれる彼らの姿が目に見えるようだった。(続く)

カンボジア再び その5

at 2006 01/07 01:21 編集

たとえば、プサートゥールトンポン。通称「ロシアンマーケット」と呼ばれるこの骨董市場。一歩足を踏み入れると陽の射さない暗い市場に所狭しと骨董品の店が並ぶ。中は入り組んでいて迷路のようだ。大半は偽物なのだが、無数の金銀製品、民芸品、陶磁器等が無言の案内人のように招き入れる。奥へ進んで行くほど外世界の喧噪は消え、どこをどう歩いているのかも分からなくなる。店先にいる老婆たち。何百年も前からそこに居るかのように泰然と僕を見据える。僕は人が営み、延々と続く生活に想いを馳せ、慄然となる。
たとえば、アンコールトムで遭った子供たち。少年は勝手にガイドを始め、少女はフィルムやガイドブックを売りつけようとする。どこの遺跡に行っても子供たちは狙撃兵のように次から次へと姿を現わす。十二、三歳くらいの少年がとても流暢な英語で説明を始めた。プノンペンは英語熱が盛んで英語塾が乱立しているのだが、それにしても彼の語学力は驚異的だ。生きるために、家族に食べさせるために必死で学んだのだろう。ガイド料として二ドルを渡すと、「ありがとう」と受け取り、消えるようにどこかへ行ってしまった。
そして元高校の校舎を転用したトゥールスレン博物館。かつてポルポト政権下に約二万人が収容され、生還できたのはわずかに六人だけだという。反革命分子と見なされた人々は家族とともに捕われ拷問を加えられた後、処刑されていった。文革と同様、多くは罪なき人たちであり、子供や老人、女性も数多く含まれていた。ポルポトの残虐行為を伝える博物館として一般公開されている。独房にはマットのないベッドが置かれ、タイル張りの床には血痕が今でも染みとなって残っている。あとは排泄用の小さな箱があるだけで、犠牲者は手足を鎖で繋がれ殺されていった。別の校舎、C棟の一階と二階には窓のない部屋に煉瓦を無造作に積み上げられて作った一畳ほどの独房がある。水も食事も与えられずに閉じ込められた彼らは何を思い、死んでいったのか。死の恐怖や苦痛とどのように闘ったのか。もし彼らが僕だったら? 彼らはあの時代にカンボジアに生まれ、僕は日本に生まれた。ただそれだけのことだった。僕と女性の係員の他は見学者は誰もいない。あたりは気味が悪いほど静まりかえっている。B棟にはおびただしい数の顔写真が壁一面に貼付けてあった。処刑前に収容者を撮影していたのだ。何のために死にゆく者たちの記録を残していたのかポルポトが死んだ今となっては謎のままだ。どれも恐怖に引きつったという顔ではなく、全てを諦めたような、諦観したような表情だった。
案内の女性は大学生かと思っていたが、高校生だそうだ。
「大学には行くつもりですか」と聞くと、「いいえ」とだけ言って悲しそうに顔を伏せたが、最後に「カンボジアは暗黒の時代を経て、復興に向かって進んでいます。未来は明るいでしょう」と答えてくれた。
晦日の前日にぶらぶらと歩いていると、学校に突き当たった。校庭には制服を着た何百人という子供たちが集まっている。小学生から高校生まで同じ校舎で授業を受けているらしい。少しすると彼らの下校時間にぶつかった。バイクで帰宅する高校生やシクロに乗って帰る小学生たち。屋台で買い食いする子供たち。その熱気を捉えようと夢中でカメラのシャッターを押した。
「裏(うち)に向かい外に向かって逢著せば便(すなわ)ち殺せ
仏に逢うては仏を殺し
祖に逢うては祖を殺し
羅漢に逢うては羅漢を殺し
父母に逢うては父母を殺し
親眷に逢うては親眷を殺して
始めて解脱を得ん
物と拘(かか)わらず透脱自在なり」
臨済宗 示衆の章)

皆様への伝達事項
ドリアン長野が2010年以前に作成し発表した海外旅行記ですので現在とは状況が異なる部分が多々あるかと思います。影響を与える事が出来ても責任は取れませんので参考にしてもらう分には構いませんが模倣は不可能になってるやもしれません。
皆さん、ドリアン長野は学生でしたが帰国後に体調不良の影響か中退しました。感染源はご法度です。病院で予防接種を済ませてから渡航する人はいます。
昨今、カンボジア製の商品は市販されてます。現在は過去と違い料金の値上げはあり得るので詳細は各自で調べて下さい。旅には時ばかりか金銭の余裕が必要です。帰宅の為の交通費や使う予定の物品等も用意して下さい。特筆すべきは心優しき日本人。一万円を見ず知らずの他人に貸しません。旅に行くのは良いが他人に迷惑をかけないようにしましょう。
2010年代には写真店は減りました。
カンボジアとタイでは国境紛争が発生してます。日本も今後、無秩序にならないような社会を形成する必要がございます。

From アハハハハ To durian-nagano@goo at 2003 08/23 18:01 編集 返信

爆笑

けども、病欠の場合には特別に試験を受けさせてくれるのではないのでしょうか? 

To at 2003 08/24 22:52 編集 返信

RE:爆笑

そうですね。でも、その日に試験が行われたことを知ったのは「不可」になった成績表を受け取ったあとでした(ガックシ)。


管理人 マーキュリーマーク
 

 回顧を兼ねた書評
 僕の初海外旅行は26歳の時のインドだった。
 当時往復チケットは年末料金だったので30万した(泣)。
 行く前は椎名誠の「わしもインドで考えた」を熟読。
 インドでは尻の毛まで抜かれるほどぼったくられ、下痢と発熱で散々だったけど、
 それからはリーマンパッカーとして主にアジアをふらふら。
 アフリカは遠すぎて行けなかった。新婚旅行もバックパックでバンコクと香港へ。
 香港では雑居房のチョンキンマンションで二泊し、妻はぐったりしていた。
 バンコクでは安宿と高級ホテルと泊まり歩き、マリオットのプールで
 溺死しそうになったのは今ではいい思い出だ(嘘)。
 旅も好きだが、旅行記も好きだ。
 この本は主にアフリカ旅行のエッセイだが、面白い。
 何よりも文章がうまい。
 奥さんとのなりそめを綴った「追いかけてバルセロナ」なんか疾走感があり、
 一気に読め、感動的でさえある。
 朝の通勤の地下鉄で読んでたけど、日本にいながら気持ちはバックパッカー。
 旅の本もいいけど、また出かけたいなあ。


 管理人マーキュリーマークからの伝言
 上記は、ドリアン長野が令和二年に投稿した内容です。
 令和六年にドリアン長野は親子でケアンズ旅行。