平成30年8月にフェイスブックで投稿された内容の転載

ごもっとも


「今日も暑かったなあ」
「暑気払いに久しぶりに行くか」
「おっ、行く」
「カブト虫捕りに」
「それじゃ今から網と虫かご取りに帰ってくるわ、って、小学生か❗️」
というビューティフルなノリツッコミを聞いた中央線の地下鉄。


二件の殺人事件を犯し、無期懲役囚(自ら仮釈放を拒否し、一生獄を出ないと決意している)美達大和氏の「ドキュメント長期刑務所」にこんな記述があります。

「今はしっかり極悪非道、人非人のチョーエキですが、私はかつて小学校、中学校とスーパー優等生で、学級委員、児童会長、生徒会長をやり、勉強もスポーツもいつも一番で、おまけに全校女子と近所のおばさん達のアイドルでした。小学校時代の恩師も、このような形でお会いするのは面目もなかったのですが、裁判に情状証人として出廷して下さって、『この子は学校のリーダーで、とくに特殊学級や知恵の遅れた子の面倒を率先して見る子でした』と証言してくれました。」

この文章と全く関連はないのですが、なぜかふっと、父のことを思い出しました(生きてます)。
父は非常に厳しく、好きではありませんでした。実家を離れて一人暮らしを始めて、その不自由さよりも束縛の無い何倍もの自由を謳歌したものです。

厳格な父でしたが、自分より上の立場の人間に媚びへつらったり、逆に弱い立場の者に対しては決して居丈高になったことはありませんでした。家でも他人の悪口や陰口をただの一度も言ったことがありませんでした。
小さい時から常連だった大島さんが言ったことがあります。

「他の模型店に行って、プラモデルの箱を開けたら、それ、買うだか?と嫌味を言われたけど、おやじさんにそんなことを言われたことは一度もなかった」

親馬鹿ですが、父の気質は孫である私の娘にも受け継がれているように思います。

うまく言えないンですが、何か考えさせられますね。(との連絡に)

ドリアン長野 ありがとうございます🙇

長野のおっちゃん・・・私たち空物モデラーがどれほどの影響を頂き、人々を結び付けていたのか計り知れません。おかげで今のグループがあるのだと思っています。〔うちはおもちゃ屋じゃないけん。〕と、頑としてキャラクター物の商品を置かなかった話、今でも覚えています。お引越し前にお会い出来なかったのが残念でなりません。よろしくお伝えくださいね。(との連絡に)

ドリアン長野 そうだったんですか。
父のプライドがそれは許さなかったんでしょうね、ありがとうございます。





中身が気になる…





56歳で亡くなったロシア語同時通訳者、作家の米原万里さん。
優れたノンフィクション作品に贈られる大宅壮一賞を受賞した「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」を読んで一気にファンになり、彼女の作品を読み漁った。ちなみに父も彼女の愛読者であり、久しぶりに帰省したおりに、これを読んでみないか?と彼女の文庫本を数冊もらった。こんなことは初めてなので少々面食らったが、ありがたく頂戴した。その諧謔さとユーモアのセンス、広範に渡る知識、端々に窺える反逆精神。とにかく彼女のファンはかなり多いに違いない。

彼女の祖父、米原省三は鳥取県八頭郡(現鳥取市)生まれ。鳥取県会議員であり、鳥取大丸日本海新聞日本海テレビを設立した。省三の次男、昶(いたる)は学生運動に係わり、旧制一高を放校。のちに鳥取県内の選挙区から立候補して当選した唯一の共産党議員であった。昶の長女が万里である。

話はコロッと変わる。2003年から2005年まで米子市長を務めた野坂康夫氏の祖父、康久氏は米子市会議員であり、本通り商店街で「十字屋」という洋食レストランを経営、そこではレコードや楽器も売っていたという。康夫氏は5歳ぐらいのときに十字屋の後ろ部分を改築して住居としたので幼稚園(マリア園)の途中から中学までそこで暮らしたというから、現在のイタリアンレストラン「パッセジャータ」だろうか。
ちなみに法勝寺商店街に古本屋「油屋書店」があり、中高生の時によく古本を買いに行った。店主が恐い人で、立ち読みをしたら必ず注意された。古本屋なのに何故「油屋」という屋号なのかと疑問だったが、昔は蝋油の取り扱い業者で、代々野坂家の商家だった。

私の実家の二軒隣に毛糸屋「エンドー」があり、長男の大谷君は幼稚園から高校まで同級生だ。過日、帰省していた時に大谷君がうちに来て、「十字屋」の話をした。「十字屋」は昭和56年頃まで存在していたそうなのだが、私には全く記憶がない。私が小学校低学年の頃だから、昭和40年代だろう、その場所におもちゃ屋があったのははっきり覚えている。逆に大谷君はおもちゃ屋は記憶にないと言う。
どなたか記憶されている方はおられないでしょうか。


淀川花火
中之島ABC放送前は穴場


大阪の住吉区に住んでた時に、マンションのベランダから(4階)遠〜〜くにPLの花火が見えて、なんか寂しかったな〜
*1(との連絡に)

 あー、わかります、その感じ。


恐いよ


フランク太ル




Bランチ ヤダ


どんなヘルスメーターだ…



そこじゃないって


T君は歳下だが、話していると蒙が啓くというか、自分の世界は何て狭いんだ、と愕然とし、勉強になることばかりだ。畏友と言ってもいいだろう。

彼が「インスタ映え」って、南米辺りの蝿ですか?と聞いてきた時には思わず尊敬の念を強くしたし、「実は僕、ハマっ子なんです」というから「T君、横浜生まれだったの?」と驚くと、「いえ、島根県浜田市です」と真面目な顔で言った時は思わず唸った。

彼はまた用意周到な男でもある。マウンテンバイクのダイヤル式チェーンキーの本体部分に油性マジックで四桁の数字が書いてある。万が一忘れたら大ごとだからだ。


インチキ液晶


危ない危ない…


落ち着け


「前、○○○で○まった芸能人いましたよね。テレビで言うと当たり障りがありますから、一部名前を伏せますね。
のり、ピー」
「全部言っちゃてるじゃねえか」
(「ナ○ツ」のネタです)


管理人マーキュリーマークからの伝言
特別に私が平成27年10月にカナダで撮影したリスの画像を添付します。

イメージ 1

リスにお願いしてもよい(笑)


文句を言う


There is no thing to be afraid of if there is faith to God


椎名林檎は中学生の時に国語の教科書に載っていた三浦綾子の「塩狩峠」を読んで以来、そのことが頭から離れない、と言います。私も10代の時に「竜馬がゆく」の薩摩藩士、有馬新七のくだりで衝撃を受けました。「オイごと刺せ、オイごと」という言葉は事あるごとに思い出します。
「自己犠牲」、いや、もっと適当な言葉が思い浮かびませんが、記憶をたどってみると、これも10代の時に読んだ「カラマーゾフの兄弟」です。冒頭にヨハネ12章24節が引用されていました。

「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」

その後、こう続きます。

「自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。」

何という恐ろしい逆説でしょうか。
しかし、後年、娘に名前を付けた時にこの逆説に支配されていたことは否めません。

菜の花から菜種油が採れ、花自体も食用になることから、「菜々花」と名付けました。


もう何が何だか…


*1:o(^∇^)o

 

 回顧を兼ねた書評
 僕の初海外旅行は26歳の時のインドだった。
 当時往復チケットは年末料金だったので30万した(泣)。
 行く前は椎名誠の「わしもインドで考えた」を熟読。
 インドでは尻の毛まで抜かれるほどぼったくられ、下痢と発熱で散々だったけど、
 それからはリーマンパッカーとして主にアジアをふらふら。
 アフリカは遠すぎて行けなかった。新婚旅行もバックパックでバンコクと香港へ。
 香港では雑居房のチョンキンマンションで二泊し、妻はぐったりしていた。
 バンコクでは安宿と高級ホテルと泊まり歩き、マリオットのプールで
 溺死しそうになったのは今ではいい思い出だ(嘘)。
 旅も好きだが、旅行記も好きだ。
 この本は主にアフリカ旅行のエッセイだが、面白い。
 何よりも文章がうまい。
 奥さんとのなりそめを綴った「追いかけてバルセロナ」なんか疾走感があり、
 一気に読め、感動的でさえある。
 朝の通勤の地下鉄で読んでたけど、日本にいながら気持ちはバックパッカー。
 旅の本もいいけど、また出かけたいなあ。