#88 ビルマの休日 その1(リターンズ)

NO88 ビルマの休日 その1

at 2006 01/09 01:15 編集

ミャンマーのビザの申請書に記入していたら、「complexion」という項目があった。肌の色、である。う~ん、whiteというほど俺の顔は白くないしな。yellowには侮蔑的な意味があるし.....。自分の顔を鏡に写してしげしげと見てみた。darkというほど松崎しげるじゃないし。「遠い夜明け」というアパルトヘイトを描いた映画で「君たちはなぜ自分たちのことをblackと呼ぶのかね。むしろbrownじゃないか」と聞く白人に対し、主人公のビーコが「あなたたち白人はなぜ自分のことをwhiteというんですか? むしろpinkだ」とやり返す場面を思い出した。アメリカだったらこんな質問には慣れているんだろうなと思いつつ、三十分考えて無難なところでwhiteと記入した。
そのビザがなかなか来ない。さすがにやきもきして、出発三日前に大使館に電話した。
「明日送ります」
ミャンマー人の職員はこう言った。まだ送ってなかったんかい。翌日になってもまだ来ない。また電話した。
「まで来てませんがっ!」
「もう出ましたから」
そば屋の出前かい、と思ったがぎりぎりには来るだろうと高を括っていた。しかし、出発当日になっても敵は沈黙したままである。その日の早朝に郵便局におもむき、「速達便は来てませんか」と聞く。
「来てませんねえ」と郵便局員。フライトは11時半だ。もう間に合わない......。がっくりと肩を落し家路につく。これは大使館のやつらの怠慢に違いない。チケット代を弁償させてやる。九時になるのを待って電話した(何回電話さすねん)。
「ビザ来てませんがっ!」
「送りましたけど。ゆうパックで」
「えっ?」
「料金が不足していたので着払いで送りました」
「あっ、そ、そうですか。どもどもども」
郵便局に確認すると確かに来ていると言う。フライトまで二時間しかない。俺はあわてて部屋を飛び出し、自転車に胯がった。10メートル走るとチェーンがはずれた。あわわ、何でこんな時に。直そうとするがあせってうまくいかない。自転車を打ち捨て、走る。バックパックをかついで走るのはつらい。すぐ息切れがする。この時ほど自分が高橋尚子だったらと願ったことはない。大通りにタクシーが停まっていた。バスを待っている暇はない。
「ハァ,ハァ、ハァ、関空までフルスピードでお願いします。そ,その前に郵便局に寄ってください」
年輩の運転手さんは猛スピードで高速道路を飛ばし、俺が乗る予定だった空港バスを追い抜いた。これでもとを取った(取ってないだろ)。タクシー代は一万円を越えてしまった。ミャンマー人の半年分の収入だ。(続く)

 元(ハジメ)管理人の感想文と皆様への伝達事項
人によっては、「海外旅行記というよりも国内旅行記では?」と考えるようなお話だと思われます。むしろ、海外旅行に行くための準備のお話もたまには楽しんでもらえると幸いです(?) 余裕を持って海外旅行の準備は事前に用意しておくのが最善だと思います。 事前は次善に非ず。私も自転車のチェーンが外れた事が平成20年代(昨年であったか?)にありました。今となっては平成18年も随分前の出来事になってます。
結局、経済発展が行われてる国か否かは時間を重要視するか否かにも関わってきます。
昨今、ミャンマーは治安の悪化等もあって政情不安定です。又、平成19年9月27日、APF通信社長井健司反政府デモサフラン革命)の取材中に射殺された。皆様に対してミャンマー旅行に行くか否かについて推奨するかどうかですが、やはり、推奨は難しく行えません。
 

 回顧を兼ねた書評
 僕の初海外旅行は26歳の時のインドだった。
 当時往復チケットは年末料金だったので30万した(泣)。
 行く前は椎名誠の「わしもインドで考えた」を熟読。
 インドでは尻の毛まで抜かれるほどぼったくられ、下痢と発熱で散々だったけど、
 それからはリーマンパッカーとして主にアジアをふらふら。
 アフリカは遠すぎて行けなかった。新婚旅行もバックパックでバンコクと香港へ。
 香港では雑居房のチョンキンマンションで二泊し、妻はぐったりしていた。
 バンコクでは安宿と高級ホテルと泊まり歩き、マリオットのプールで
 溺死しそうになったのは今ではいい思い出だ(嘘)。
 旅も好きだが、旅行記も好きだ。
 この本は主にアフリカ旅行のエッセイだが、面白い。
 何よりも文章がうまい。
 奥さんとのなりそめを綴った「追いかけてバルセロナ」なんか疾走感があり、
 一気に読め、感動的でさえある。
 朝の通勤の地下鉄で読んでたけど、日本にいながら気持ちはバックパッカー。
 旅の本もいいけど、また出かけたいなあ。