令和三年八月の投稿





執行草舟と佐堀暢也(当時神戸大学医学部在籍)の「夏日烈烈」という対談集がある。
「夏日烈烈」というのは草舟氏が中学生の時に三島由紀夫と会い、文学論を交わしてから三島の知遇を得て、草舟氏に揮毫して送った色紙だ。今も草舟氏の社長室に掲げられている。
奔馬」の飯沼勲のモデルは彼だといわれている。
その中でジェンケヴィッチ(ポーランドノーベル賞作家)の「クォ・ワディス」について語られているところがある。
ローマの皇帝ネロからの迫害を恐れて逃げていくペテロがアッピア街道でキリストとすれ違う。
ペテロは問う、「クォ ワディス ドミネ」(主よ、何処へ)と。
キリストは言う。
「お前たちが信徒を捨てて逃げるなら、私がもう一度十字架にかかりにローマに行く」
ペテロは恥じ入ってローマに引き返し、逆さ磔になる。
カソリックではこのペテロが初代ローマ法王だ。
草舟氏はこのときそれを恥じたというペテロがとんでもなく好きだという。キリスト教徒に言わせればそれは違う、と言うだろうが、草舟氏は武士道だと言う。そして私も同感である。



ふとT君に以前した質問をしてみた。
九州男児と聞くと何県の人を思い出す?」
「……やっぱり高知ですね」
よかった、まだ健在だった。


管理人マーキュリーマークからの伝言
時に明確な大間違いは嘲笑を作り出します。
全く逆に九州の鹿児島県からやってきた人に「福岡県北九州市と同じ位に鹿児島県南九州市は有名ですね。」と発言し納得してもらったことがあったのを連想しました。




赤朽葉家の伝説」 桜庭一樹
製鉄業で財を成した旧家赤朽葉家の1953年から2000年代の三代に渡る女たちの物語。読み進むにつれ、ガルシアマルケス百年の孤独」に題材を得てるな、とニンマリ。
もっと山陰の重く湿ったものかと思っていたら拍子抜けするほどポップだ。地元で生まれ育った者にはよくわかる。
紅緑村=米子市
宵町横丁=朝日町
錦港は錦公園あたり
商店街の描写なんか、あーっと声が出るくらいよくわかる。
「紅緑村では、駅前が花形の街であった。
駅を出たところからずっと続くアーケード街は、朝は野菜や魚の市が出て、昼は買い物客でにぎわった。
デパートも五階建てのものが建っていて、一番上の階でお子様ランチを食べたり、屋上から景色を眺めたりするのが子供たちの憧れであった。
(略)
郊外のマイカー族が増えるにつれ、駅前はあっという間に寂れていった。アーケードの街の店は次々に閉店した。」
宵待町横丁のディスコ「ミス.シカゴ」に後に売れっ子漫画家になる赤朽葉毛毯が足繁く通うが、あの頃の朝日町にはディスコが何軒かあり、僕も帰省した時によく踊りに行った。
赤朽葉家はアメリカのケネディ家のようにしたいと桜庭さんは考えたらしい。
最終章の第三部はミステリー仕立てになっていて伏線を回収していく。
赤朽葉家の伝説」は日本推理作家協会賞受賞をしたが、その選評。
「作り手にはこれを書くために作家になった、いや生まれてきたと言える著作との出会いがあるものですが、本作は桜庭一樹という作り手にとってその一本になると確信します」
「この作者の代表作になる作品であると思う」
そして馳星周からは「これしかあるまい」と。
ようこそ、ビューティフル・ワールドへ。

管理人マーキュリーマークからの伝言
私も過去に居住してた街を連想しました。








「墜落遺体」著者は当時高崎署刑事官。身元確認班長となる。
1985年、単独としては世界最大の航空機事故。
藤岡市民体育館に収容された遺体。
腐臭を放ち、蛆が湧き、切断、欠損したあまりにも凄惨な遺体の数々。上腕のみ、あるいは手首だけの。
シートベルトのために多くの遺体が下腹部で断裂していた。そのために母体外に飛び出した焦げたミイラのような胎児遺体。
前頭部が飛び、両手、両下肢がちぎれた黒焦げの父の遺体の前で「僕は泣きません」と14歳の長男が唇をかんでいる。
「泣けよ」と少年の肩を叩く若い警察官の目からはボロボロと涙がこぼれ落ちている。
確認の説明をした歯科医師が涙を呑み込もうと天井を見上げている。
二歳くらいの幼児。顔の損傷が激しく、半分が欠損。それなのにかわいい腰部にはおむつがきちっとあてがわれている。
写真担当の巡査のカメラのシャッター音が止まる。
彼も検視官も医師も看護師も汗とともにこぼれる涙を止められなかった。
クライマーズ・ハイ」は映画化もされた。上毛新聞(映画では北関東新聞)の遊軍記者、悠木。
日航機墜落事件、友人と約束した登山、息子との不和、地方新聞記者の矜持、新聞社内での確執といったことが重層的に書かれる。
戦場のような御巣鷹山の現場を目にした記者が雑観を書く。
これは映画でも一字一句そのまま引用された。
「若い自衛官は仁王立ちしていた。
両手でしっかりと、小さな女の子を抱き抱えていた。
赤い、トンボの髪飾り。
青い、水玉のワンピース。
小麦粉色の、細い右手が、だらりと垂れ下がっていた。
自衛官は天を仰いだ。
空はあんなに青いというのに。
鳥はさえずり、風は悠々と尾根を渡っていくというのに。
自衛官は地獄に目を落とした。
そのどこかにあるはずの、女の子の左手を探してあげねばならなかった_。」
悠木は赤ペンを置いた。感情が収まるのを待って席を立った。
整理部長に原稿を渡した。
「カクさん、これ、一面トップで」
「どうしたん?赤い目して」
悠木は答えず、ネクタイを緩めながらドアに向かった。

管理人マーキュリーマークからの伝言
ご存じの方々も多いでしょうが多大な悲劇を作り出しましたね。
果たして真相は?



神戸のチベットと言われる北区は義母や義弟家族が住んでいる。時々行くからよくわかるのだが、初めて行った人が「ここって本当に神戸市内?」
と思うのは中区周辺しか知らない観光客のイメージする横浜市とどっこいどっこいだ。
そんな北区出身者には私にとってスーパースターが四人いる。
一人は義母。とにかく器が大きく、世間体など滋賀にも歯牙にもかけない。それでいて思いやりに溢れている。
子どもが大好きで長年保育士をやっていたが、今も知的障害者のお世話をして働いている。僕の娘も義弟の子どもたちも彼女が大好きだ。
二人目は父親から虐待を受け、死ぬ寸前までいった島田妙子さん。彼女の著書「e love smile」に書いてある日々は壮絶のひとこと。現在は三人の母親兼会社経営者。
三人目は「家族だから愛したんじやなくて、愛したのが家族だった」の著者、エッセイストの岸田奈美さん。
この人のエッセイは面白くて、鹿も馬も(昭和ギャグ)逆境を感じさせないほどパワフルだ。
四人目は走る書家、上山光広さん。
なんと連続100日間フルマラソンという偉業を成し遂げた、生きること自体が芸術ではないかと思える人。自分がもし彼の子どもだったら、死ぬほど父親を尊敬するだろう。
その上山さんから名刺大の書が届いた。
一目見ただけで痺れた。カッコええ〜。
上山さんのようなカッコイイ大人になりたい、ってもう充分なオッさんは死ぬまで生きる。#上山光広

管理人マーキュリーマークからの伝言
神戸市にも赴いたことはあるし平成十年代に横浜市関内駅桜木町駅そして野毛山公園にも赴いたことがあるからお伝え出来ますがいわゆる市内であっても観光地とそうではない街が混在してます。







横浜の思ひで



部屋を整理していたら昔の写真が出てきた。
19歳、隠岐の島に行く船で。
この頭は…
ヅラ…
おばさん…
ボートピープル
いや、よお〜く目を凝らして見ればキムタクに似てないこともないこともないかも…
ちょお、待てよ(キムタクの声で)
あ、嘘です、ごめんなさい、ごめんなさい🙏



幕末のターニングポイントとなった大事件である桜田門外の変には「風雲児たち 幕末編」20巻と21巻を費やしていて、これだけでほぼ全貌がわかる。
幕府側、襲撃側、凄まじい描写である。
みなもと太郎先生がお亡くなりになって幕末編は未完となった。
残念でたまらない。
心からご冥福をお祈りします。
以下は一年前に投稿したもの。
みなもと太郎風雲児たち」を読んでいる。斯界の評判が良かったからであるが、読み進めているうちに驚嘆した。
執筆当時に入手可能な最新の史的資料を調査した上で執筆されているため、それまでの多くの歴史フィクションでよく見られたステレオタイプの視点や、
学校などで習う標準的な歴史観を脱している。
例えば、天保の大飢饉の時に二宮金次郎の「凶荒図録」に「茄子で飯を食ってると初夏だというのに秋茄子の味がした。
おかしい、これは凶作のおこる前触れではないか」という記述がある。
金次郎はいぶかしがる村人を説き伏せ、冷害に強い作物に植え替えさせたため、
その秋から始まった大飢饉に小田原藩のこの村だけはビクともせず二宮金次郎の先見の明が証明された、と。
しかし、その前年の天保三年にはすでに諸国から飢饉の報告が寄せられていた。
金次郎は天明大飢饉の真っ最中、天明七年の生まれで、飢饉の天候を肌身で知っている貴重な人間であり、当然数年前から地道な指導は始まっていたはずであり、
天保四年の秋茄子味一件は「『いよいよ始まったな』というくらいのエピソードと捕らえるべきでありましょう」とみなもとは書いている。
このようなみなもとの見解は随所にある。
風雲児たち」は幕末の遠因は関ヶ原の戦いにあるとして、そこから始まり、骨太の大河ドラマ漫画となっている。
自分にとっては中央公論社から出ている「日本の歴史」全26巻と双璧を成すものだ。



8月25日の産経新聞夕刊「ビブリオエッセー」に向田邦子さんのエッセイのレビューが掲載されます。
半年前に投稿されたのでボツになったと思っていましたが、掲載が遅れた理由は
① 8月22日が彼女の40周忌になること
② レビューの中で彼女の航空機事故に触れているが、8月12日に起きた日航機事故を連想されること
父がNHKしか観なかったので「寺内貫太郎一家」も「時間ですよ」も観たことがなかった。NHK放送の「阿修羅のごとく」でさえ観たことがなかった。
彼女の高名はもちろん知っていたが、なぜか読んだことがなかった。
「無名仮名人名簿」を今年初めて読み、たちまちその文章の名人芸に魅了された。
彼女のお父さんは学歴がなく、苦労して保険会社で出世したが家庭では暴君であったことが書かれているが、我が父のことを思い出した。
ドリフの番組は観ていたが、それは商店街の土曜夜市で店を9時まで開けていた夏の間だけだった。
担当記者が「江戸の地口に触れていますが、それが面白いですねえ」と言ってくれたが、
小中学生の時に家にあった興津要編の「江戸落語」を愛読していたので、それと通じるものがあったからだ。
彼女のファンでもあった父が掲載を知ったら、きっと喜んだろうねえ、と妹が言った。



お江戸の名物
「火事に喧嘩に中っ腹、伊勢屋、稲荷に犬の糞」


管理人マーキュリーマークからの伝言
月の一日から中旬迄に一回以上投稿するだけでなく中旬から末日迄に一回以上投稿する予定です。
本音を伝えますが趣味でブログをしてますので毎月必ず一日と14日に投稿する自信はございません。過大な要求をされても不可能です。

特定のホームページですが2012年に私とドリアン長野が会談した時に紹介を取り止める決断を下しました。業務上の艱難辛苦を語られてた点は同情しますが当方は不要な争いには加担しません。
産経新聞に投稿が掲載されたのは快挙でした。
ツイッターの利用回数は過去よりも削減します。
又、埋め込み投稿という特性上、ブログ側が利用可能な場合と利用が不可能な場合が混在してますのである程度の取捨選択は不可避です。

敬具
 

 回顧を兼ねた書評
 僕の初海外旅行は26歳の時のインドだった。
 当時往復チケットは年末料金だったので30万した(泣)。
 行く前は椎名誠の「わしもインドで考えた」を熟読。
 インドでは尻の毛まで抜かれるほどぼったくられ、下痢と発熱で散々だったけど、
 それからはリーマンパッカーとして主にアジアをふらふら。
 アフリカは遠すぎて行けなかった。新婚旅行もバックパックでバンコクと香港へ。
 香港では雑居房のチョンキンマンションで二泊し、妻はぐったりしていた。
 バンコクでは安宿と高級ホテルと泊まり歩き、マリオットのプールで
 溺死しそうになったのは今ではいい思い出だ(嘘)。
 旅も好きだが、旅行記も好きだ。
 この本は主にアフリカ旅行のエッセイだが、面白い。
 何よりも文章がうまい。
 奥さんとのなりそめを綴った「追いかけてバルセロナ」なんか疾走感があり、
 一気に読め、感動的でさえある。
 朝の通勤の地下鉄で読んでたけど、日本にいながら気持ちはバックパッカー。
 旅の本もいいけど、また出かけたいなあ。