生田長江のこと
生田長江の書生であった米子市生まれの詩人、生田春月のことはよく知られていることであるが、天才的な翻訳家の長江のことはあまり知られていない。明治15年鳥取県根雨生まれ。日本で初めて抄訳ではあるがマルクスの「資本論」を翻訳。自身も博覧強記であった今東光曰く、「とにかく天才だった。向坂逸郎なんか生田長江に比べたら曲学阿世の徒に過ぎないね」
モルモン書は1909年に日本で翻訳された時、文語体(当時の「文章体」)であった。当時、日本伝道部をヒーバー・J・グラントに次いで管理していたアルマ・O・テイラーは、1904年7月からモルモン書の日本語訳に着手していたが、テイラーの訳文は言文一致体(口語と文語の混合体)で2年弱で終了し、1907年12月にその改訂も終了していた。
しかし、何人かの日本人に相談したところ、宗教の聖典に相応しいのは文章体(文語)であると提案され、ニーファイ第一書1章を神戸と仙台に住む日本人に見てもらったところ、やはり文語に直して返送してきた。それでモルモン書の翻訳をやり直すことになった。
その結果、初め早稲田大学の平井広五郎、ついで夏目欽之介(漱石)の推薦で生田長江(本名弘治、)と契約して生田が文章語の翻訳を終了している。(平井は途中契約違背のため、契約破棄に至っているので、生田が最終稿を教会に提出したと見る。) それをテイラーが点検し、平井や河井幸三郎(号醉茗、作家、詩人)など数人の日本人の意見を聞いて、1909年4月に原稿が完成している。そして、最終的に同年10月に印刷を終えている。
後に昭和訳の翻訳を行なった佐藤龍猪はこの明治訳について、「その訳はまことに立派なもので、必ず名のある専門の英学者の手によって成ったものであることを確信させられました」と語っている。
晩年はらい病に罹り、崩れ落ちる体を支え、抜け落ちた眉毛を墨で書いていた。享年54。
死の直前まで仕事を続け、正に死の恐怖に打ち勝った「死の勝利」の一生であった。
一方で弟子の春月は38歳の時に乗船中、瀬戸内海に身を投じた。
死の直前まで仕事を続け、正に死の恐怖に打ち勝った「死の勝利」の一生であった。
一方で弟子の春月は38歳の時に乗船中、瀬戸内海に身を投じた。
