生田長江のこと 平成29年11月

生田長江のこと
生田長江の書生であった米子市生まれの詩人、生田春月のことはよく知られていることであるが、天才的な翻訳家の長江のことはあまり知られていない。明治15年鳥取県根雨生まれ。日本で初めて抄訳ではあるがマルクスの「資本論」を翻訳。自身も博覧強記であった今東光曰く、「とにかく天才だった。向坂逸郎なんか生田長江に比べたら曲学阿世の徒に過ぎないね」
ドフトエフスキー「罪と罰」、ダヌンチオの「死の勝利」、ニーチェ全集などを翻訳刊行。末日聖徒イエスキリスト教会聖典「モルモン書」も翻訳している。
モルモン書は1909年に日本で翻訳された時、文語体(当時の「文章体」)であった。当時、日本伝道部をヒーバー・J・グラントに次いで管理していたアルマ・O・テイラーは、1904年7月からモルモン書の日本語訳に着手していたが、テイラーの訳文は言文一致体(口語と文語の混合体)で2年弱で終了し、1907年12月にその改訂も終了していた。
しかし、何人かの日本人に相談したところ、宗教の聖典に相応しいのは文章体(文語)であると提案され、ニーファイ第一書1章を神戸と仙台に住む日本人に見てもらったところ、やはり文語に直して返送してきた。それでモルモン書の翻訳をやり直すことになった。
その結果、初め早稲田大学の平井広五郎、ついで夏目欽之介(漱石)の推薦で生田長江(本名弘治、)と契約して生田が文章語の翻訳を終了している。(平井は途中契約違背のため、契約破棄に至っているので、生田が最終稿を教会に提出したと見る。) それをテイラーが点検し、平井や河井幸三郎(号醉茗、作家、詩人)など数人の日本人の意見を聞いて、1909年4月に原稿が完成している。そして、最終的に同年10月に印刷を終えている。
後に昭和訳の翻訳を行なった佐藤龍猪はこの明治訳について、「その訳はまことに立派なもので、必ず名のある専門の英学者の手によって成ったものであることを確信させられました」と語っている。
晩年はらい病に罹り、崩れ落ちる体を支え、抜け落ちた眉毛を墨で書いていた。享年54。
死の直前まで仕事を続け、正に死の恐怖に打ち勝った「死の勝利」の一生であった。
一方で弟子の春月は38歳の時に乗船中、瀬戸内海に身を投じた。
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 回顧を兼ねた書評
 僕の初海外旅行は26歳の時のインドだった。
 当時往復チケットは年末料金だったので30万した(泣)。
 行く前は椎名誠の「わしもインドで考えた」を熟読。
 インドでは尻の毛まで抜かれるほどぼったくられ、下痢と発熱で散々だったけど、
 それからはリーマンパッカーとして主にアジアをふらふら。
 アフリカは遠すぎて行けなかった。新婚旅行もバックパックでバンコクと香港へ。
 香港では雑居房のチョンキンマンションで二泊し、妻はぐったりしていた。
 バンコクでは安宿と高級ホテルと泊まり歩き、マリオットのプールで
 溺死しそうになったのは今ではいい思い出だ(嘘)。
 旅も好きだが、旅行記も好きだ。
 この本は主にアフリカ旅行のエッセイだが、面白い。
 何よりも文章がうまい。
 奥さんとのなりそめを綴った「追いかけてバルセロナ」なんか疾走感があり、
 一気に読め、感動的でさえある。
 朝の通勤の地下鉄で読んでたけど、日本にいながら気持ちはバックパッカー。
 旅の本もいいけど、また出かけたいなあ。