ドリアン長野のネパール旅行記

カラテ イン ネパール編
カトマンズの朝は早い。そして寒い。ここ、バサンタプルの広場でも早朝から何することもなく人々がたむろしている。
オーストラリアから来たという少女が物乞いをする少年に仏心を出し、パンケーキを買ってやった。
それを他のガキどもが見逃すわけはない。「僕にも、僕にも」 と彼女を取り囲む。
困惑顔の彼女はしかし、近くにいた大人がたしなめたおかげで事なきを得た。
ああくわばら、くわばら、桑原和○。それにしても遅い。さっきから誰も来ない。
なぜ私がこんな所で待ちぼうけを食っているかというと、今からさかのぼること昨日のことだ。
タメルで一泊した私はジョッチェンに投宿しようと昼前にここにたどり着いた。
そして広場の入口にある貸し自転車屋の前の絵看板に目が釘付けになってしまったのだ。
こっ、この一見ヘタだがよく見るとやっぱりヘタな絵は極真会館の松井館長ではないかっ。ほれっ、その証拠に極真マークもちゃんと描いてあるぞ。
なにを隠そう、私は極真空手家オタクだ。夢はムエタイ・ボクサーとルンピニー・スタジアムで戦うことだ(嘘ぴょ~ん)。
ちなみに子安慎悟?(あれっ?)のファンだ。ここってもしかしなくてもネパール支部じゃん。これも何かのお導き。天国の大山総裁、 ありがとうございます、押忍っ。カラテ道場を知らないかとそこら辺の人に聞いてまわったが、誰も知らん。
そうしている内に六十歳くらいの油すましみたいなお爺がいつの間にか出て来て、のたもうた。
「道場なら閉鎖して去年ニューヨークに引っ越したよ」
はあ~っ? 何でネパールの道場がニューヨークに引っ越すんじゃい、ワレ。こうなったら戦争じゃけん。止めんでつかあさい、オジキ!
  と今ならつっこむところだが、生憎その時の私は冷静さを失っていたので心底、落胆した。せめて閉鎖した道場でも見たいと所在地を聞くと、 このじっさま知らんとぬかしよる。何でやねん! 筋が通らへんやないけ! ワシは筋の通らんことは嫌いじゃ。
タマ取ったりますけん、止めんでつかあさい、 オジキ! と今ならつっこむところだが、私はあせって平常心を失っていた。しばらくすると、じっさまはまわりの人に何ごとかを尋ね、郵便局に行こうと促すのだ。
何でやぁ~~っっ?!
しかし、頼みの綱はこのじっさましかおらん。大人しくついて行くと、うしろからガタイのいい男が追っかけて来た。
  「僕の弟は黒帯で指導員をしてたんだ。僕自身は結婚して忙しくなったので茶帯でやめてしまったけど」
そうか、そうか。君がそうなのか。会いたかったぞ。我々は再会を約束し、そこで別れた。聞きたい話はたくさんあるが、 まずホテルを確保しとかんとな。
ホテルにチェックインする時もなぜかじっさまはついて来て街を案内してくれた(とはいっても広場とショッピング・センターだけだったが)。
バサンタプルに戻り、さきほどの男と話をしていると彼の弟の黒帯空手男(クマルという名前)と奥さんがやって来た。
奥さんは台湾人で、ネパール旅行中にクマルと知り合ったそうだ。二人はこの広場で露店商として土産物を売っているのだ。
私とクマルはカラテについて飽くことなく、何時間も語り合った。奥さんは傍らに座っていて、うんうんと時おり会話に加わる。
そうこうしていると、じっさまが再び現われて、「あっちで待ってるから」と言った。このたわけた子泣きじじいめ。わしが何のために世界中で何度も何度も何度も(泣) 騙され続け、何回も何回も何回も(号泣)金をまきあげられたと思うてけつかんねん! てめえの悪だくみなんぞ、こちとらお見通しでい!(もっと早く気いつかんか~い) 無視するとじっさまはいつの間にかいなくなった。あまりクマルの商売の邪魔をしては悪い。
  「またあとでね」 と腰を上げ、近くのガキんちょたちにババぬきを教えて遊んでいたら、今度は見るからに怪しそうな男に肩を叩かれ、ついてこいと声をかけられた。
てめえ、じじいの仲間か、と警戒心を抱きながらもついていった。

この男はとてもとても人相が悪い。凶悪といっても過言ではない。
逃げ出したほうがよいのではないだろうかとビビりながらついていくと、 五、六人の男女がたむろしている場所へ連れてこられた。

なによっ、あんたたち、変なことしたら大声だすわよっ。すると中の一人が言った。
「私たちはキョクシンカラテのメンバーです。オス!」 
なんだ~、びっくりさせんじゃないわよ~、思わずヒザがかっくんとなっちゃったじゃないの。
でも良かったわ、会えて。みんなに連れられてすぐ近くにある彼らの先生(三段)のアパートまで案内してもらった。
先生は八畳ほどの部屋に妻子と住んでいるのだが、壁という壁の至る所にカラテの賞状が飾られている。何冊もあるアルバムは稽古や試合の写真ばかりだ。
私(ドリアン)は猛烈に感動した! この地でこんなにも極真カラテを愛している男がいたことに!! (梶原一騎調でお読みください)
一週間後に試合があるからビザを四日間延長してカラテを教えてくれと懇願されたが、私は真面目なリーマン・パッカーだ。

出勤日から四日間無断欠勤したら即刻、馘首じゃないか。
家賃はどうやって払うんだ。残念ながら断ると、それじゃあ、明日道場生とピクニックに行くから一緒に行きましょうと誘われたのだ。
七時の予定が結局八時半に出発した(ネパールタイムだそうです)。八人が幌付きのトラックの荷台に押し込められた。
みんなの顔を見ると何だかヤクザの出入りか自衛隊の演習って感じだ。着いたダクシンカリはヒンズー教の寺院で祭りには神サマに捧げるためにヤギの首をはねるそうである。
ピクニックといってもネパール人は弁当なんぞ持っていかん。材料を持参して現地で女性たちが料理してカレーを作る。
トラックに積んでいたバカでかいインド製のカセットとスピーカーでダンス大会をするつもりだったらしいが、シャイなネパール人は誰も踊ろうとしないのだ。
ここでも私が得意のダンスを披露して、皆の尊敬を一身に集めたのはいうまでもない。
翌朝、バサンタプルを歩いていると誰かに聞いたのか、「僕もキョクシンカイです」と佃煮にできるほどのガキんちょ、いや少年たちに声をかけられた。
そういうわけで朝からこの広場にはあっちこっちで気合いがこだまするのであった。オ~~スッ!

カトマンズの夜


中山可穂の「熱帯感傷紀行ーアジア・センチメンタル・ロードー」を読んでいたら、次のような文章にぶつかった。著者はインドネシアを旅していたのだが、「店内のラジオからは、マントヴァーニ楽団の『ブルー・タンゴ』が流れていた。まさかこんなところで、アメリカ製タンゴの名曲を聞けるとは思わなかった。」 僕は、ああ、分かるなあと思った。僕もカトマンズのタメル地区にある古本屋の二階で日本語と英語のペーパーバックを眺めていたら、ラジオからビョークが聞こえてきたことがある。曲名は思い出せないが、ネパールでビョークという取り合わせも妙なもので、年の暮れということも相俟って、異国で独りという寂寥感が身に染みた。
カトマンズに行こうと思い立ったのは、タメルという場所がバンコクのカオサンと同じように世界中のバックパッカーで賑わっていることを本で読んだからだ。ネパール人と異国のバックパッカーが交錯しながら食事をしたり、土産物を売ったり買ったりしている光景を思い描くと居ても立ってもいられなくなった。
夕刻にネパール空港に到着。ロッジのようなイミグレーションを通過し、外に出てタクシーを拾う。数十分走ったが、王宮の前で突然、エンストした。運転手に聞くと、何とガス欠らしい。彼は車外に出て、通りを見つめている。どうするのかと思って見ていると、やがて通りがかったタクシー仲間を捕まえてガソリンを分けてもらっていた。タメルに着いた頃には辺りはすっかり暗くなっていたが、なるほど土産物やホテルや食堂が櫛比し、賑わっている。適当な安宿にバックパックを下ろし、街に出てみた。タメルはカトマンズにおいても異質な場所だと思う。ニューヨークがアメリカにとって特異な都市であると同じ意味で。外国人と牛と地元の人間で賑わっている往来をぶらぶらと歩いていると、小さなスーパーマーケットがあった。そこが気に入って、タメル滞在中は日課のように通った。外国人に混じって食料品を買っていると、不思議と心が安らいだ。多分、一人であっても一人じゃない距離感が好きだったからだろう。食堂では、よくモモ(水牛肉の餃子)とチョウメン(焼きそば)を食べた。席に着いてから最初のお茶が出てくるまで20分、最後の食事が出るまで一時間かかった。

白人の客が「ネパールタイムだ」と言うと、他の客はあきらめのような、連帯感のような笑いを洩らした。
ひょんなことから、あるネパール人夫婦と意気投合し、彼らの知り合いの家へ招待されることになった。その家は日本大使館のすぐ側にあり、門扉から玄関まで歩いていくような、ネパールの生活水準からすれば充分すぎるほどの大豪邸だった。主人のチャンさんは台湾出身で、台湾の電化製品をネパールに輸入して成功した人だ。熱心な仏教徒でもあり、広い居間の一角にしつらえた祭壇へのお祈りは毎日かかさない。チャンさんは言う。「あなたが今日ここに来たのは、あなたが生前ネパール人だったからだ。今度ネパールに来た時はホテルに泊まらず、うちに泊まりなさい。いっそのこと、ネパール女性を紹介するから結婚してこっちに住んだらどうですか」。帰りは夫婦にタクシーでホテルの近くまで送ってもらった。食堂に入り、3人でチョウメンを食べた。縁って不思議だね。そう言って3人で笑った。ネパールに来てから三日目だった。
知り合いから知り合いに紹介され、滞在中は数珠つなぎに知人が増えていった。誰もが親切にしてくれた。ネパール人は日本人に似ているところがある。控えめで内気で、外国人に対しては親切にせざるをえない。それに加えて男たちは眉間のあたりに矜持といったものを漂わせていた。彼らの信仰する神のせいなのか、それとも貧しさによって自らを恃みにしなくてはならないからだろうか。勇猛果敢なネパール人はグルカ兵としてイギリスの傭兵になったこともある。僕は日本のサムライと彼らを重ねあわせることもしばしばだった。 
たとえば、こういうことがあった。ジョッチェンの広場で少年たちにババ抜きを教えて遊んでいた。しばらくトランプをしていると、後ろから肩を叩かれ、知り合いの大人たちから「メシを食べに行こう」と誘われる。「すぐ戻ってくるから」と中座し、彼らとしゃべっているうちにトランプのことは忘れてしまっていた。あくる日、その広場に行くと、昨日の少年が近づいてきて、「忘れ物だよ」とトランプを差し出した。些細なことだが、アジアで未だこのような正直さに出会ったことはなかった。
帰国日、最後に広場に行ってみた。顔見知りの少年を見つけ、これから帰るからと告げる。何かを言おうと思ったが、適当な言葉が浮かばない。「ダンニャワード(さようなら)」と言って歩き出したが、写真を撮っておこうと思いついた。ついでに周りの連中も記念に写しておこう。「写真を撮るよー!」とあたりに声を掛けると、20人くらいが集まった。笑顔の彼らをファインダー越しに覗いていると涙が出そうになった。
タクシーを拾い、空港に向かう。しばらくすると今度はパンクした。車外に出ると、来た時と同じような満月だった。


皆様への伝達事項


空手家のドリアン長野はネパールでも空手をしてきました。ネパールとチベットは隣接してますので似通った料理が食べられるようです。ドリアン長野は空手家です。

海外に赴き同じ志を持つ人に出会って嬉しかったそうです。

色々と生活習慣等で違う点は多いが共通点が存在すると話が合います。

 ネパールと言えば政変がありました。 平成十年代は王政でしたが平成20年からはそうではなくなりました。

詳細は各自で調べてください。

私はカナダ(ブリティッシュコロンビア州)のホテルの室内でラジオ番組を聞きながら私物の整理整頓をしてました。日本でも洋楽を聞く機会が多いから普段と大差なく行えたのを連想します。音楽は国境を超える。国や地域毎に販売会社は異なるそうですけどもね。

敬具 管理人 マーキュリーマーク

ドリアン長野の海外旅行記のリンクと連絡 

 

 回顧を兼ねた書評
 僕の初海外旅行は26歳の時のインドだった。
 当時往復チケットは年末料金だったので30万した(泣)。
 行く前は椎名誠の「わしもインドで考えた」を熟読。
 インドでは尻の毛まで抜かれるほどぼったくられ、下痢と発熱で散々だったけど、
 それからはリーマンパッカーとして主にアジアをふらふら。
 アフリカは遠すぎて行けなかった。新婚旅行もバックパックでバンコクと香港へ。
 香港では雑居房のチョンキンマンションで二泊し、妻はぐったりしていた。
 バンコクでは安宿と高級ホテルと泊まり歩き、マリオットのプールで
 溺死しそうになったのは今ではいい思い出だ(嘘)。
 旅も好きだが、旅行記も好きだ。
 この本は主にアフリカ旅行のエッセイだが、面白い。
 何よりも文章がうまい。
 奥さんとのなりそめを綴った「追いかけてバルセロナ」なんか疾走感があり、
 一気に読め、感動的でさえある。
 朝の通勤の地下鉄で読んでたけど、日本にいながら気持ちはバックパッカー。
 旅の本もいいけど、また出かけたいなあ。