令和三年九月の投稿



話題のあの方…
地下鉄にて
「なんであんなどこの柿の種なんかわからんやつと結婚せなあかんねん」
……馬の骨……ですよね…



告白します。
今の今までKis-My-Ft2の宮田くんを半沢直樹の主人公だと思っていました。
その前はNHK連ドラの坂口健太郎をガッキーの夫だと思っていました。



最近疲れているのか…
高市さんが尾木ママに見える…



故あって自転車で東大阪まで。
その帰り道の永和辺り。
懐かしい風景があちらこちらに。
#白蓮会館総本部




子どもが撮った夕暮れ
秋だなあ
『 ほどよう御飯が炊けて 夕焼ける 』
種田山頭火



あんた、もしかしたら山陰出身者だね❗️



大阪市西区



大阪市福島区

管理人マーキュリーマークからの伝言
過去に東北の福島県から大阪府にやってきた人がおられ大阪市福島区のお話をしたら否定的な扱いをされて困った事がありました。(笑)




Tくん、兄貴刺す、じゃなくてアニサキスです。



「情」
1998年、新井将敬自死し、遺体が自宅に到着。国会議員数人が新井を迎えた。
高市早苗は彼を寝かせる布団を敷き、
「どうしてこんなことになってしまったの」
と頭を撫でながら涙を流した。
臨時ニュースを聞いた地元の荒木大田区議は声を上げて泣いた。周りの者は後追い自殺するのではないかと毎日交代で事務所に行って慰めつづけた。
彼が初めて新井と会ったのは区議選でビラを配っていた時だ。
車がすうっと停まり、降りてきた男が無言でビラ配りを手伝った。その男が新井だった。
新井は「街頭から始めるやり方は俺と同じだ。一度訪ねて来なさい」と名刺を渡して立ち去った。
荒木は落選後、新井事務所を訪ね、私設秘書として働き、公設秘書を経て四年後に区議になった。
新井将敬自死した品川駅前のホテルのベッドの下から短刀が出てきた。この短刀は野村秋介に貰ったものだ。
1982年のこと、新井将敬の選挙ポスターに石原慎太郎の公設第一秘書が「41年北朝鮮から帰化」というシールを貼った。
これに義憤を感じた民族派の野村が石原事務所に抗議をし、それ以来の盟友だ。
野村が河野一郎邸焼き討ち事件で千葉刑務所に入獄していた際に、寡黙で朴訥、勤勉な「獄中左翼」の在日韓国人
朴判岩が無事故、無欠勤で勤勉に働いていたが、それにもかかわらず看守に虐待されているのを見かねて、野村が管理部長に朴の勤勉さ、
良識ある行動を報告した。すると一か月もしないうちに、朴に仮釈放面接が下った。
朴は野村にお礼を言ったが、野村は「僕の力ではない。君自身の生きざまというか姿勢が、僕を感動させて、管理部長も感動させたんだ」と答えたという。
逮捕許諾請求が衆議院本会議で採決される直前であったことから検察が強引に証券取引法違反で逮捕に踏み切った。本来なら執行猶予もつく在宅起訴であった。
新井将敬は自らの政治理念として紐付き陳情や企業献金も一切受け付けていなかった。

要は東京地検特捜部が新井将敬スケープゴートにしたんではないかということです。



河野〜
あ、ごめんなさい💦
ブロックしないで



「区役所から還付金きたよ」
「え、ハロウィンだから?」
「は?」
「カボチャだろ」
「そりゃパンプキンだっつーの!」



ある人と信号機の話をしていた。
なぜ緑を青というのか。
初めて信号機が設置された昭和5年に新聞が赤、黄、青と報じ、しかも新聞はモノクロだったのでそれが浸透したとチコちゃんが言っていた。
ちなみに英語で the green light は「お墨付きをもらう」という意味にもなる。
それで思い出したのが漫画の「サザエさん」。
カツオがたちが先生に「これから信号機の青は緑と言いましょう」と教室で教えられる。
一転して学芸会の稽古。
カツオが同級生が扮した馬に「ミドリよ…」と泣く。
先生が飛んできて「塩原太助はアオでいいんだ」
私はこの時小学生。パンチラインはわかったが、塩原太助がわからなかった。
調べてみたら塩原太助は江戸時代、上野国生まれの豪商で立志伝中の人物として戦前には教科書にも載っていた。
三遊亭円朝が創作した「塩原多助一代記」で有名になったそうだ。
かの群馬県上毛カルタでも県民の人口に膾炙しているところだが、今やどんな人物か知っている人は稀だとか。
江戸に出るために愛馬、青との別れは泣きどころの場面。塩原太助公園には愛馬「青」とともに塩原太助の銅像が建立されているらしい。
50年振りに謎は解けたが、ふとこんなことを思い出すなんて、脳というのは不思議だと思った次第。

ユニクロ心斎橋旗艦店が閉店し、GUとの複合店として同じ心斎橋商店街にリニューアルオープン。店頭で花を売っている関西初のフラワー店。
母の車椅子を押して道頓堀まで。
「米子の商店街を思い出すなあ」と母。
そうだなあ、今はシャッター通りになったけどと、昔日を懐かしむ。

管理人マーキュリーマークからの伝言
ドリアン長野は平成の時期と違って令和になってからは娘、奥さん、そして実母を助けながら生活することになりました。
又、諸事情から鑑みて文面だけの転載を選択させていただく場合もございます。




初めての墓参。
下寺町〜四天王寺〜てんしば





「そういえば…」
「フォーエバー?」
「そ・う・い・え・ば」
「総入れ歯?」



吾子を抱き
孫抱く母の
秋近し

 

 回顧を兼ねた書評
 僕の初海外旅行は26歳の時のインドだった。
 当時往復チケットは年末料金だったので30万した(泣)。
 行く前は椎名誠の「わしもインドで考えた」を熟読。
 インドでは尻の毛まで抜かれるほどぼったくられ、下痢と発熱で散々だったけど、
 それからはリーマンパッカーとして主にアジアをふらふら。
 アフリカは遠すぎて行けなかった。新婚旅行もバックパックでバンコクと香港へ。
 香港では雑居房のチョンキンマンションで二泊し、妻はぐったりしていた。
 バンコクでは安宿と高級ホテルと泊まり歩き、マリオットのプールで
 溺死しそうになったのは今ではいい思い出だ(嘘)。
 旅も好きだが、旅行記も好きだ。
 この本は主にアフリカ旅行のエッセイだが、面白い。
 何よりも文章がうまい。
 奥さんとのなりそめを綴った「追いかけてバルセロナ」なんか疾走感があり、
 一気に読め、感動的でさえある。
 朝の通勤の地下鉄で読んでたけど、日本にいながら気持ちはバックパッカー。
 旅の本もいいけど、また出かけたいなあ。