令和四年五月の投稿




不思議な縁

荒俣宏という作家、博物学研究家、妖怪研究家、翻訳家、客員教授、タレントなどの肩書きがある博覧強記の人がいる。
稀代のビブリオマニアでもあり、「帝都物語」の印税1億5000万のうち1億4000万を古本購入に費したという。
ある日、彼は水木しげる宅に行き、僕を弟子にしてください、と土下座した。荒俣は水木を平田篤胤以来の妖怪研究家として尊敬していたのだ。
水木しげるは軍隊入隊前、エッカーマンの「ゲーテとの対話」上中下三冊を雑嚢に入れて南方まで持っていくほど傾倒していた。
荒俣宏「戦争と読書」にはこんなことが書いてある。
ゲーテとの対話」の訳者、亀尾英四郎というドイツ文学者は、なんと偶然なことに米子出身です(糀町)。境港にきわめて近かった土地です。
彼は昭和20年10月に栄養失調死してしまいます。配給制度を死守し、闇の物資には一切口をつけませんでした。自分の食べる分を全て四人の子どもたちに譲っていました。
亀尾は自らの信条に生き、亡くなった。
以て瞑すべし。

最近の話
友人の家は理由があってNHK受信料が免除されている。
友人が民放ニュースを観ていると、母親に「もったいない!タダやからニュースやったらNHKで観なさい!」と言われる。
「車にドラ猫つんでへんの?」という会話を聞き、「は?」となったが、ドラレコの聞き間違いだった。
夕食にカレーを作ろうと思い、肉、人参、メイクイーンをカゴに入れ、玉ねぎを買おうと値段を見たら目の玉飛び出るほど高いのでカレーはあきらめて買った物を一つ一つ戻した。
同じことをやっているオトーサンがいた。母の日にカレーを作ってあげようと思っていたんだろう、きっと。知らんけど。



「日本のマンガ家は9割の手塚系と1割の水木系からできている」といったのは漫画家の根本敬だが、言い得て妙だ。
生家には手塚治虫全集があり、繰り返し読んできたが、水木しげるの漫画は見るからに暗くて敬遠していた。
最近になって、長年取り組んでいるファミリーヒストリーを書くために故郷の先輩、水木しげるの自伝や評伝を読み漁った。
その一冊である本書は著者が発表した文章をまとめ、書き下ろしを加えたものだ。
ある時、著者が書いたマレーシアの少数民族セノイ族についての文章(後に「夢を操る マレー・セノイ族に会いに行く」として刊行)を読んだ水木は著者に会って意気投合し、
精霊探検のために共に世界各地へ出かける。
その時に感銘を受けた著者は自らを世界は水木しげるを中心に回っているという「水木しげる原理主義者」だと宣言した。
しかし、この原理主義は自らの原理を徹底して、そこにはまっていくのはバカバカしいという逆説的な原理主義なのだ。
これは彼がかつてエホバの証人の信者であったことと無関係ではない。
水木しげるとの旅行は抱腹絶倒だ。
水木しげるは2015年に亡くなった。報せを受けた著者の大泉さんは想う。
「大食漢で甘いものが大好きで、いつ会っても『社会の窓』が全開で、なんの虚飾もなく、本音の人。天衣無縫で、えらそうなことは一言も言わない人」
そう思うと涙が止まらなくなる。
葬儀の時に大泉さんは水木夫人から「水木を楽しませてくださって、ありがとうございました」と言われる。
それほど夫人からも信頼されていた大泉さんだが、終章を読んで驚いた。水木しげるが亡くなった年に彼は一人息子を亡くしていた。
水木しげるは稀有な才能を持った巨人であり、人を惹きつけてやまない魅力の持ち主だった。本書はその魅力を余すことなく伝えている。
NHKオンデマンドで「ゲゲゲの女房」を改めて観た。
オープニング、実写とアニメのコラージュ。いきものがかりの歌にあわせて悪魔くんのキャラ、そして鬼太郎が紙芝居を見ている。
目玉親父猫娘。そしてテレビに1970年の大阪万博の開幕式が始まるのをねずみ男がねっ転がって観ている。
その時、水木しげるはもうこの世にいないんだと思ったら涙が止まらなくなった。
それでは、またね、水木サン。ありがとう。

スーパーにて
「ねえ、お母さん、この砂糖って頭いいの?」
「どうして?」
「てんさいって書いてあるもん」

手塚家の関西と東京

関西法律学校(現在の関西大学)の創始者の一人である児島惟謙のことは大津事件でよく知られているが、手塚治虫の祖父、手塚太郎もその一人であった。
彼は江戸で生まれ、治虫の父、粲(ゆたか)も東京生まれで、中央大学卒業後に大阪の住友倉庫に勤務した。彼はアマチュアながら有名な写真家でもあった。
司法官であった太郎が大阪地方裁判所時代に関西法律学校の設立に関わった。退官後に現在の宝塚に住む。
太郎の死後、息子の粲夫妻は彼の屋敷に引っ越した。手塚治虫の「リボンの騎士」が宝塚歌劇の影響を受けていることはよく知られている。
太郎の父、医師の手塚良仙は治虫の「陽だまりの樹」で有名だが、江戸生まれの良仙は大坂の「適塾」で学んだ。
治虫が上京し、漫画家として成功した後に杉並区に自宅を建て、宝塚から両親を呼んで同居した。
粲は手塚プロダクションに来るファンを一人一人持てなしたという。


妻が子どもに「オワコン」って何?と聞いていた。子どもが説明すると、
「つまり、テレフォンカードはオワコンね」と言うのではるか昔に年輩の方が「Eメールって何?」と聞いてきたので「メールにはいいメールと悪いメールがありまして…」と話したことを思い出しました。



旅が好きだし、海外旅行にも行けるから添乗員になりたい、と言うあなた、まず本書を読んでください。それでも、と言う人なら大丈夫でしょう。
著者はあるきっかけで添乗員になりましたが、添乗員とは「耐え忍ぶことなり」と言ったら大部分は当たっているかもしれません。
ツアー参加者、旅行代理店の人、運転手、クレームはノーリミットです。著者は読書や映画鑑賞などを好み、友人はおらず、一人でいることが好きなそうです。
ただ声は大きく、よく通ると言われるそうなので、その点では向いていると言えるでしょう。
なかなか感心しつつ読んでいたのですが、著者が思わず涙を抑えきれない場面があります。
私もその箇所を読んで目頭が熱くなりました。著者の言うその場面にいたら私も滂沱したことでしょう。
それに著者がそう感じる感性、いわば著者の心の美しさにも二重に泣かされました。
添乗員は辞める人も多いのですが、入ってくる人もまた多いそうです。
著者もこの仕事を一生やるかと言われれば首をかしげるそうですが、嫌でたまらないということもありません。
まあ、とにかくメンタルが強く、体力がある人じゃないと長続きしないでしょう。私は著者に非常に好感を持ちました。
面白く、驚き、涙した一冊でした。

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カフェテラスで食べるハンバーグランチ450円

日本のマンガを母国語に翻訳して紹介する仕事を立ち上げようとしていた留学生が、「僕 ... 女の子だよ?」というセリフが訳せなくて頭抱えてる。

というツイートにわかる、わかる、わかる…


水木しげるは10代後半の出征前に生と死について煩悶し、聖書やニーチェショーペンハウエルなどを読み漁りますが、その中にエッケルマンの
「ゲエテとの対話」と出会い、出征する際には上中下三冊を雑嚢に入れて南方まで持っていくほど傾倒しました。後年、全巻を7回通読し、今でも暗記していると言っています。
荒俣宏水木しげるの共著の、といっても、水木の手記に荒俣が解説をつけるという形ですが、
「戦争と読書」には以下の荒俣宏の記述があります。
ゲーテとの対話」の訳者、亀尾英四郎というドイツ文学者は、なんと偶然なことに鳥取県米子市出身です。
境港にきわめて近かった土地です。
亀尾は熱烈なゲーテ信奉者で、ゲーテの最も重要な評伝といわれるエッカーマンの「ゲーテとの対話」をわずか27歳で訳出しました。
この翻訳者は翻訳の完成後に東京高等学校ドイツ語教授となりましたが、昭和20年10月に栄養失調死してしまいます。
終戦直後の物資窮乏期にあたり、配給制度を死守しようとした国の方針にしたがい、また教育者としての範例にもしたがい、闇の物質をいっさい口にせず、
配給品だけで暮らしていました。
自分の食べる分をすべて子どもたちに譲っていたため、教え子たちが気づいて牛乳などを持ち込んだときには手遅れだったといいます。
ゲーテとの対話」には、このような、戦争に隠れたドラマがあったのです。
英四郎の妻も夫の死から三か月後に衰弱死しています。
英四郎は六高生(現在の岡山大学)の時に夏目漱石門下生であり、「三四郎」のモデルである小宮豊隆の東京の自宅を訪ねて将来のことを相談しています。
翌年帝大に入学した英四郎は、しばしば小宮宅に出入りし、子どもたちとも仲良くなりました。
その一人が後のドイツ文学者でブレヒト研究家として知られる小宮曠三(こうぞう)でした。
英四郎の生家は糀町にある足袋屋です。冬休みに帰省して東京に戻った彼は小宮家全員に亀尾の紋が入った立派な足袋をプレゼントして喜ばれています。
交流は小宮が東北帝大の教授になり、引っ越しをするまで続きました。
東京高等学校での英四郎の教え子に後年、社会学者となる日高六郎がいました。
日高は英四郎に反抗的な態度をとっていたこともありましたが、次第にその人格に惹きつけられ、ほとんど唯一の師と考えるようになった、と言っています。
最初に師の異変に気づいたのは彼でした。級友に連絡を取り、野菜スープや牛乳などを自宅に運びましたが、手遅れでした。
英四郎には六人の子どもがいました。遺児たちを日高たちが尽力し、「東京育成園」(創設時は「東京孤児院」という名称でした)という児童養護施設に入れました。
長男の利夫氏は東大哲学科を卒業後、「デューイの哲学」などの著書を著し、弘前大学人文学部長になっています。 非常に謙虚な人柄で、大学に新任したばかりの教師にもドイツ語の教えを乞うたといいます。
末弟の覚(あきら)氏は利夫氏を頼って弘前大学卒業後、日本化薬などに勤務し、「亀尾英四郎全集」などの編集に携わっています。
現在80歳になる覚氏は「今まで父、英四郎を支えにして生きてきた」そうです。
英四郎の死に関しては賛否があると思いますが、この覚氏の言葉が全てを語っていると私は思います。
長女の春子さんは「多くの人たちによって育てられた」との思いから資格を取り、東京育成園に戻って保育士として長年働きながら、ボランティアにも従事していました。
ニーチェは「ゲーテとの対話」を「人間的な、あまりに人間的な」の中でドイツ語の最高の本と賞賛しています。
東京育成園の基本理念はマタイによる福音書の「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである」だといいます。


新聞社から謝礼として二千円分の図書カードをいただいたので、子どもにプレゼント。
熱心に選んでます。僕は普段図書館で借りているか、どうしても欲しい本はネットで買うので書店に行くのは久しぶり。
あ〜、やはり書店はいいなあ。チムどんです。あれもこれも読みたい。
子どもの頃は隣が大型書店だったのでほぼ毎日立ち読みしてたなあ。
親父も店をほっぽり出して、しょっちゅう立ち読みに行ってました。今井書店さん、今さらですが、ごめんなさい。


管理人マーキュリーマークからの伝言

 投稿の内容と回数の削減についての告知
諸事情から鑑みて転載する内容ですが厳選させて頂きますし文面だけの転載を選択させていただく場合もございます。
数日後の催事についての連絡であればまだしも「開催日は本日です。」といった迅速な対応が求められるような投稿の転載は時には厳しく見送りはあり得ます。
平成29年の夏にドリアン長野から「無理しなくて良いから。」と私は伝えられたしドリアン長野が運営してるホームページはございます。
今後ですけど約半月に一度の投稿であっても悪くないと考えて頂きたい。
ちなみに当ブログは実質的なオワコンかもしれませんので一か月間で十回以上の投稿は多かったかもしれない。
オワコンとは終わったコンテンツ(内容)という意味の略称です。
書評方面の転載は紹介方法を今後は変更させていただきます。
派遣添乗員ヘトヘト日記は佳作でしたので皆さんに推奨します。 敬具

 

 回顧を兼ねた書評
 僕の初海外旅行は26歳の時のインドだった。
 当時往復チケットは年末料金だったので30万した(泣)。
 行く前は椎名誠の「わしもインドで考えた」を熟読。
 インドでは尻の毛まで抜かれるほどぼったくられ、下痢と発熱で散々だったけど、
 それからはリーマンパッカーとして主にアジアをふらふら。
 アフリカは遠すぎて行けなかった。新婚旅行もバックパックでバンコクと香港へ。
 香港では雑居房のチョンキンマンションで二泊し、妻はぐったりしていた。
 バンコクでは安宿と高級ホテルと泊まり歩き、マリオットのプールで
 溺死しそうになったのは今ではいい思い出だ(嘘)。
 旅も好きだが、旅行記も好きだ。
 この本は主にアフリカ旅行のエッセイだが、面白い。
 何よりも文章がうまい。
 奥さんとのなりそめを綴った「追いかけてバルセロナ」なんか疾走感があり、
 一気に読め、感動的でさえある。
 朝の通勤の地下鉄で読んでたけど、日本にいながら気持ちはバックパッカー。
 旅の本もいいけど、また出かけたいなあ。


 管理人マーキュリーマークからの伝言
 上記は、ドリアン長野が令和二年に投稿した内容です。
 令和六年にドリアン長野は親子でケアンズ旅行。