インド旅行記(前編)

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#25 インド編その1  (リターンズ)
at 2003 11/14 23:44 | Weblog
人間は二種類に分類される、とは巷間よく言われることである。古典的なものでは猫的人間か犬的人間か、流動型か土着型か、果ては野球に熱中する人間かそうでないか、ドアーズを聴いたことのある人間かそうでないか、その伝でいけばこう言えるかもしれない。この世は二種類の人間しかいない。インドに行ったことのある人間とそうでない人間と。私がインドに行ったのは26歳の時、それが初めての海外旅行だった。――
 なんてね、オレは沢木耕太郎かってえの。このようにインドとなると人はテツガクしてしまうのである。私がインドに旅立った(そんなに大袈裟なもんじゃないけど)のは自分を変えたかったからだ。(まだ若かったんです。すいません) その頃の私は私生活で色々とあって、その打開策を旅に求めたんである。旅に出て、人間をひと回りでかくして日本に戻ってくるぞっ! そのためにはやはりインドだっ! と、かようなことを考えていました。(あの、旅行は一週間だけです。大馬鹿野郎です、私は。生きててすみません)
 といういうわけでエア・インディアで成田を飛び立ち、私は機上の人となった。(まだかっこつけてる) 機内食とサリー姿の太めで愛想の悪いスッチーにうんざりし始めた頃、ようやくカルカッタ(現コルカタ)のダムダム空港(現在はチャンドラ・ボース空港と改名)に着いた。ちなみにダムダムというのは地名である。殺傷力が高く、残酷なので使用を禁止されたダムダム弾はここの造兵廠で製造されたそうだ。
 夜の7時。タラップを降りると、いきなり暑い。じっとしていても汗が吹き出てくる。しかも硝煙というか、焼けたゴムというか、ともかくそんな臭いがする。しかも空港警備員は小銃を持っている。(帰ろう......かな? と少しだけ思いました) 空港ビル内に入ると、国際空港だとは思えないほど薄暗い。空調なんぞはもちろんなく、天井に三枚羽の扇風機がゆったりとハエを追うように回ってるだけ。それにしてもあっちいーな。なんか飲みたい。           
 「Drinking water」と書かれたプレートが目についたので近寄ってみると、そこには公園にあるような噴水式の蛇口(下から口に向かって噴水する、あれね)がぽつんとあった。なにもこんなもんに仰々しくプレートをつけんでも.......。いや、ここはインドだ。水道水が飲めるだけでもありがたいと思わんとな。入国審査と税関を終え、外に出ようとしたが、そこで足がピタリと止まった。なんと外にはインド人たちが押すな押すなと黒山の人だかり(インド人だからホントに黒い)で出てくる人間を待ち構えてるんである。それはなにも私が有名人なのでサインをもらおうとか、インドの地を初めて踏む日本人を熱列歓迎してやろうとかといった気持ちからでは決っしてない。やつらはタクシーやホテルの客引きである。全員が、俺はこの客引きに命を賭けてるんだ。なんてったって、家族の生活がかかってるからな。かあちゃん、待ってろよ。明日もチャパティ-を食わせてやっからな。そらっ! 金持ちの日本人が出てきやがった。今夜のカモはあいつだ。ぜってえ、逃がさねえぜ、なんて顔をしてるのだ。
 ひえ~っ! あいつらの中に出ていくんかいっ! 思わず「ブルース・リー 怒りの鉄拳」でブルース・リーが暴徒と化した群集や拳銃を構えた警官隊に走り出て、飛び蹴りをかますラストシーンが浮かんだね。(おいっ! おもいっきり美化してないか?) 
 しかし、ここで回れ右をして帰国してしまっては、末代までの恥だし、航空券が無駄になる。よしっ、待ってろよ、インド人! サムライ魂をみせてやるわあ~っ! と、ここで私は、はたと気づいた。興奮してたんで忘れてたけど、旅行会社で今夜のホテルは予約してたんだ。そのホテルから車が迎えに来てるはずだ。そうだった、そうだった。それならいくら客引きが寄ってこようと恐くはない。私は余裕の表情で空港の外に出た。
 「ナマステ~、インドのみなさん、アイ・ケイム・フロム・ジャパ~ン」 がっ、! 
 「ジャパニ! ジャパニ!」 「タクシー! チープ! チープ!」 「ホテル? カム! カム!」 「グッドプライス!!」 「ベリーチープ!!」 ぎゃあ~! うげえ~っ! 「#$%&♀¥!!」
 うるさいわいっ! 私はフランスに凱旋帰国したトルシエ監督なみにもみくちゃにされた。(トルシエって、確かフランスだったよな。サッカーに無知なので事実誤認があったら許せ、サッカーファン)
 ホテルから迎えに来たらしき人が声をかけてきた。 「エクスキューズ・ミ-、ア-・ユー・ミスター・ナガノ?」 「イエス! イエス! イエース!!」 私はヘビメタのヘッドバンキングのように激しくうなずいた。
 「すみません、ちょっとここで待っててください」 そう言うと迎えの人はどこかへ行ってしまった。間髪を入れず、そこへ別のインド人が現われて、「グレート・イースタン・ホテル(今晩予約していたホテル)なら、こっちだ」と先に立って案内する。思わずふらふらとついていったが、途中で何か変だなと立ち止まった。すると、さっきの迎えの人が追いかけてきて、「ノー! ノー!」と私を連れ戻したのだった。あぶねえっ、ちっとも油断がならねえな、インド人!! (つづく)

 管理人マーキュリーマークの感想文と皆様への伝達事項
 1961年生まれのドリアン長野が26歳の時の海外旅行記です。言い換えると、1987年(昭和62年)のある日、インドに旅行してきたのでドリアン長野にとって半ば唯一の昭和の海外旅行記になるようです。
 改めて、日本はとりあえず法治国家なのかと思えてしまいますね。実際には、そうでもない時もあります。本当にインド人に私は日本からやってきたと発言したから、インド人にだまされそうになったみたいです。
 平成十年代に日本代表のサッカーチームを指揮していたトルシエ氏は、平成22年にテレビコマーシャルに出演されたから健在ぶりをアピールしていましたから、人々の記憶に新しいと思います。(それも平成29年現在となっては6年以上前だから随分前か?)
 空港名(ネータージー・スバース・チャンドラ・ボース国際空港 略称 CCU )は現在、変更されているそうです。 人によっては、旧名を発言してしまう人もいるかもしれませんね。 インド旅行は、基本的に暑いといったお話を耳にします。今回もそういった内容です。一方でインドでも北部や標高の高い山間部(世界で最も標高が高い地域のヒマラヤ山脈等)はとても寒いそうです。日本国内でも沖縄県と北海道では全く天候が違います。それと、同様ですね。
 今回の海外旅行記のインド第3の都市コルカタは、どちらかというと北インドの影響が強い地域でインド東部(西ベンガル州)の海に面している暑い町のようです。国の天候に限っては、町によって変わってくるから決め付けるのではなくて、国内の複数の町において、暑いと寒いが混在しているといった考えを持たないといけないと考える所存です。
 過去に複雑な出来事があったから東部であっても西ベンガル州になったそうです。言い換えると、東側のベンガル州は現在のバングラデッシュになっています。「インド東部であっても西ベンガル州で正しい。」と認識する事が求められています。1905年には東ベンガルは存在していた。後に戦乱の影響で現在のバングラデシュになりました。戦乱は人々の絆や町ばかりか国家をも引き裂く。西ベンガル州はインドで東側がバングラディシュなんです。
 この海外旅行記をを読んだ事もあって、私が実際にバンクーバー国際空港(YVR)に到着した時にホテルへの送迎バスの内の送り担当の運転手を見た時は若干、緊張してました。カナダとインドは両国共に英連邦だが大違いでした。そういえば、カナダの第3の都市圏人口はメトロバンクーバーらしい。待っていた人が少なかったのと在外邦人さんがやってきてたので私は冷静に行動出来ました。困ったのは他の路線でやってくる日本人観光客達がやってくる迄待機させられたことでした。インドでもカナダでも送迎バスの送りの時は待機させられるのか?
空港連絡鉄道(トランスリンクのカナダライン)が円滑に利用出来るから次回の利用は少し考えますね。実際に乗車したから言えますが、カナダラインは運行されている本数は多かったです。CCUも空港連絡鉄道が利用出来るそうですが運行されている本数は少ないそうです。詳細は各自でお調べ下さい。
 議論するよりも、冷静に空港からホテルに移動したいのが本音です。なぜならば、海外旅行の場合は時差ボケでとても苦しんでる状態で入国手続きを済ませた後で空港を離れる人は多いです。例外は時差の大差が無い国への移動のみか?半ば余談かもしれませんが、全く逆に私がカナダから日本への帰路の時に限っては運転手に「パスポートはお持ちですか?」と質問されて黙ってパスポートの顔写真を迎えに来た運転手に見せました。千の言葉よりも一の実行。但し、約束の時間はお互いに守ったが元々の会う時間が少しばかり遅めで帰国便に着席したのはおよそ40分前であったが及第点を取れてると考えるか否かは人によって意見が分かれるか?
 冒頭の「人間は二種類に分類される。」ですが海外旅行に一回でも行ったかどうかで十分でインドにこだわる必要は皆無だと思います。海外旅行に行かなくても健康で文化的な生活が行えると考える日本人は多いであろう。皆さんでお考え下さい。
 誤解の内容にしておきますがCCU (Coronary Care Unit)は 冠疾患集中治療室の略称だと考える人は多いかもしれませんがインドで有名なネータージー・スバース・チャンドラ・ボース国際空港の略称もCCUで同じ位に有名かもしれません。




ちなみに色々とあっての謎解きですが、ご本人が平成28年4月二日において実質的に発表されましたので以下を読んでください。
題名 ドリアンという名前を 僕にもくれないか
「そうか やっぱり君はくだものの魔王だ
僕にも君の その炎熱の魔力を分けてくれ
ドリアンという名前を 僕にもくれないか」
小学生のときに読んだ「空手バカ一代
中学生のときに知ったブルース・リー
高校生のときに聴いたセックス・ピストルズ
人生にはいくつかの転機というものがある
四度目というべき黒船襲来は30代のときだった
いや、27歳のときにインドから帰ってきたら告白しようと考えていた女性に結婚するのと電話口で告げられ失意の中で旅したコルカタ、デリー、バナラシー行きもその中に入るかもしれないが、少しカテゴリーから外れる
ともかく、強烈だった
心臓を鷲掴みにされるという強烈な読書体験を初めて知った
作者が失意の中で旅したテレジン
子どもたちばかりを集めたナチスの収容所
明日ガス室に送られるかもしれない子どもたちが残した絵を見て激しい感情に揺さぶられる
「彼らが収容された時には、彼らの両親もまたナチスによって連行されたに違いない。彼らは両親の運命も知りながら、救いようがない絶望の中でこれらの絵や日記を残したのだ。
僕は知らなかったのだ
殺された子供たちの魂が、実は僕の魂であり、あなたの魂であることを。
あなたはなぜあなた自身をあきらめるのですか?
あなたはなぜあなたらしく生きようとしないのですか?
ぼくたちのことを あなたの言葉で伝えてよ。
ぼくたちのことを あなたの歌で伝えてよ。」
作者は演劇やパティ・スミスなどのポエトリーリーディングに影響を受けた、音楽に載せて詩を朗読、あるいは叫ぶという全く新しい分野のパンクバンド「叫ぶ詩人の会」を結成する
「気でも狂ったのかと言われたのよ
だから狂ったと答えたの
タクシードライバーのデ・ニーロのように
人を殺しに行くのかって言われたのよ
だから答えたの
殺しはしません
抱くのです
叫んで 歌って 抱くのです」
彼らのCDを聴く度に滂沱の涙が止まらなかった
失意の中でもがき苦しんでいた自分と重なり合う部分もあった
彼らのコンサートにも何度か足を運んだが、それは今まで体験したことがなかった奇妙なライブだった
観客は熱狂することもなく、踊り出すこともなく、いや踊り出そうにもリズムに乗ることが不可能なのだ
身じろぎもせず、ただステージを見つめている
しかし感情を外に出すのではないが、彼らの放出するあまたの言葉によって内面は激しい感情を喚起される、少なくとも自分がそうだった
人は人によって殺される
人は言葉によって救われる
ずっとパンクを聴いてきた劣等感まみれの自分自身の心情である
「僕らは知っているのだ
広大無形なこの廃墟からも
いつの日か命が生まれることを
希望が生まれることを
虹彩の奇跡が生まれることを
湾岸線に陽は昇る」


#26 インド編その2 (リターンズ)
2012-01-01 | Weblog
#26 インド編その2

 「グレート・イースタンホテル」の大理石のバスタブにつかりながら私は考えていた。 
 「カルカッタくんだりまでやって来て、こうやって高級ホテルの風呂にのうのうと入っている場合か。インド8億の民衆の生活を知るためには、やっぱり安くて汚いゲストハウスに泊まって貧しさを肌で感じなければ。民草の中に入っていくのだ。カースト反対! ガンジー万歳!」
 お前は民青かっ! と思わず突っ込みを入れたくなるほどの勘違い野郎だ。あえてゲストハウスに泊まる理由があるとすれば、お金を倹約したいとか、居心地がいいとか、貧乏の疑似体験をしてみたい等であって、民衆の生活なんぞ分かるはずもない。 「それはお前の自己満足やろが~っ!」と今の私なら当時の私に回し蹴りをかますところだ。
 とにもかくにも翌朝、私はサダル・ストリートに行こうとホテルを出た。インドの中でも最も汚いといわれるカルカッタ。そのカルカッタで最も汚いといわれるのがサダル・ストリートだ。ってことは宇宙で一番汚い場所だ。その界隈にはありとあらゆる病原菌が生息しているという。そこに安宿が密集しているのだ。白人バックパッカーに道を尋ねながら歩いていると、老婆やら子供を抱いたお母さんやらが「バクシーシ(おめぐみを)」と右手を差し出してくるのだが、ギョッとなることもしばしば。指がニ本か三本欠けている。五本ともない人も。ハンセン病だ。あきらかに顔が変型している人もいた。ううっと重苦しい気分になって先を急ぐ。
 バックパッカーの間ではその名を知らぬ者はおらず、小説にまでになった「ホテル・パラゴン」に泊まろうと思い、リキシャーワーラー(人力車のようにうしろに人を乗せ、自転車でこいでゆく乗り物がリキシャーであり、それをこぐ人)に場所を聞く。すると横にいた客引きの兄ちゃんに「パラゴンは満室だ。俺の知ってるホテルに案内してやる」と紹介されたのが「キャピタル・ゲストハウス」(一泊60ルピー。当時のレートで1ルピー≒12円とお考えになれば大体の目安となるでしょう)だった。実は、客引きがそこは満室だと嘘をついて自分と契約をしたホテルに連れていき、キックバックを得るのはよくあることだったが、当時の私には知る由もなかった。
 生まれて始めて泊まったゲストハウス、キャピタルは冷房なし、トイレとシャワー(水)付き、ベッドのシーツは少なくとも一か月は換えた形跡なしであったが、別に不自由は感じなかった。もう1ランク下がると、トイレとシャワー(水)共同、シーツは少なくとも半年間は換えた形跡なし(南京虫付き)になる。
 宇宙で一番汚いサダルは小便横丁という表現がピッタリくる。あっちこっちがぬかるんでいて、あっちこっちにウンコが落ちている。サダルにいるのはビンボー旅行者と物売りと乞食と詐欺師と泥棒と野良犬だ。乞食とそうでない人の境界はきわめて曖昧で、排水溝で体を洗っている人もいれば、道端で寝ている人もたくさんいる。この通りにいれば、いろんな人にやたらと声をかけられる。
 「ジャパニ、○リファ○いらないか? ○シ○は?」 「マネー・チェンジしないか? レートがいいぞ、フレンド」「パージャーマー買わないか? 安くしとく。フレンド・プライスだ」 「マイ・フレンド、お土産にサリーはどうだ?」
 おいっ、会ったばかりで名前も知らんのにフレンドたあ、どういう了見でえっ。そう、インドでは友だちになるのに時間は必要ないのだ。友だちができないと悩んでる君、インドに行って、友だちをつくろう! 友だちに国境は関係ないのさっ。さあ、君も今すぐレッツ・ゴー・トゥー・インディア!
 「ハロー、ジャパニ。インドは初めてか? どこから来た? トーキョー? オーサカ? 俺も日本には仕事で行ったことがある。ヤマモトを知ってるか? 俺の親友だ。何、知らないのか。まあいい。ところで俺の知り合いが店をやってるんだが、寄っていかないか? お前はトモダチだから特別に安くしてやるよ。お金持ってないって? ノー・プロブレム。見るだけ。見るだけならノー・マネーだ。オーケー? こっちだ。ついてこい」 
 私もインド滞在中に何回も同じことを言われた(違うのはヤマモトがタナカになったり、ケイコになったりするだけだ)。こうして大阪商人も顔負けの狡猾さでうぶな旅行者を店に引っ張り込み、適性価格の何十倍もの値段をふっかけ、最後にはケツの毛までむしり取ってしまうのだ。ああ、恐ろしや、インド人。
 私の経験では、アジアでの物売りと物乞いのしつこさランキング第一位はやはりインド人だ。断っても無視しても、どこまでもどこまでもどこまでもついてくる(いやな男にナンパされる女の気分か?)。後年、タイやネパールやカンボジアに行った時、物売りや物乞いのあまりの淡白さに「もっと気合い入れて仕事せんか~いっ!」と思っちゃったほどだす。(つづく)

 管理人マーキュリーマークの感想文と皆様への伝達事項
 海外のホテルでお風呂に入るのは自由ですが排水口が浴槽内に一つだけの可能性が高いです。万が一、浴槽からお水を溢れさせて室内の絨毯を水浸しにすると高値の掃除代金が請求されるので皆様、お気を付けください。そういうこともあって、海外旅行保険の加入が推奨されてる。私はホテルのシャワーだけで毎日済ませてました。海外にも温泉施設が営業されてると言われてるからどうしてもお湯につかりたければ海外の温泉にでも行かれてはどうでしょうか?

 インドは、現在(平成28年の時点において)は13億人を越える人口を抱える国家としても有名です。 核兵器保有しているインド。 将来的にインドは核戦争を戦うのであろうか? 
 やはり、強要という罪が存在してるかどうかが法治国家の境目かもしれません。外貨の両替については日本国内である程度済ませてから海外に行かれてはどうでしょうか?私がブリティッシュコロンビア州に行った時はそうしました。だけど、ATMは利用してしまった。日本国内で外貨を持つことは違法ではないが外貨での支払いは違法になる恐れがあるので気を付けてください。バンクーバーのロブソン通りに行った時に店舗を構えた両替商はいたし声掛け商法をしてる化粧品店のお店があったがそんなにはしつこくなかったです。しつこかったのは日本に住んでるストーカーでフェイスブックを通じて何度も詰問してきたから日本に帰国後、頭をスッキリさせて冷静になってダメ出しをしてブロックしました。それと同時に良き友人達に被害状況を伝え納得してもらいました。抗議しても逆上されました。
 病気についても深刻な状況です。一説によると多剤性耐性結核菌がインドでは猛威を振るっているとも言われています。単純に日本と違って販売の規制が緩いと言われている抗生物質の使いすぎだけではなくて、治療の仕方に問題がある患者が多いからだそうです。日本でも治療の途中で放棄をする患者が多くいるそうです。不況の影響で、8割程直った元重病人ないしは重傷だった患者が医療費を踏み倒す為に病院から逃亡する事例は少なくないと言われています。 こういった行動は治療費の踏み倒しだけが問題ではなくて、病原菌を拡散させる行為なので辞めていただきたいのが本音です。 
 国内産業の保護につながるか否かは不明ですが、スズキ自動車がインドでの商売で成果をあげているようです。インド人が理不尽な要求をしてきた時には否定を躊躇しなかったのが成功した要因だったようです。実際の所、日本国内の工場との競争がございます。従って会社内の海外工場とはそういったやり取りが必ず発生します。昨今のような状況ですと日本の工場からだけではなくて将来的にはインド製の自動車も日本国内で一般的に販売される可能性は否定が行えません。元々は、為替差損対策で海外工場が作られましたが今後は少子化対策になるかもしれません。
 今までは単純なお笑いエッセイでしたが、インド編については全く笑えないお話が幾つも平成十年代に発表されました。そして、2010年代になって再発表しています。 
確かに是非は大別されるかもしれませんがカレーライスの原材料の香辛料ばかりかアパレル商品もインド製が増加して日本で販売されるようになってきました。
こういった海外旅行記を読むことで日本の長所を再認識された人々も多いと考えます。海外のホテルと日本のホテルを比較してしまう人は多いと思います。結局は海外のホテルと日本のホテルは食事は良かったから両者共に良かったとしても、金額が海外のホテルは高値であったしそこそこ良いホテルに行っても日本のビジネスホテルの方が良かったと考える日本人は多いと思います。理由は前述したお風呂等も含めます。ベッドが柔らかすぎて熟睡が難しかったです。又、海外においては日本人観光客が無礼者になる前例を何度か私は見てきました。日本国内であれば無礼者が早期に糾弾されるが海外ではそうではないと考えてるなら、それは間違いだと言い切れます。それら以外は皆さんの予想にお任せします。

 平成20年代になって幾分、経済が良くなったかもしれないインドですが、恐ろしいお話については、以下でお伝えします。



#27 インド編その3 (リターンズ)
2012-02-01 | Weblog
#27 インド編その3

at 2003 11/28 21:37 編集

インドはいうまでもなく暑い。めったやたらと暑い。気温は、少なくとも香港風邪にかかって病院のベッドでうんうんうなっている重病人の体温よりは高いのは間違いない。歩いていると熱風に包まれたようになって息が苦しいし、脳みそが沸騰してくるので難しいことは理解できなくなってくる。そんな炎天下で男はクルターとパージャーマーの上下、腰巻風のドーティーやルンギーといった服装が多いが、女はどこへ行ってもどんな時でもひたすらサリーだ。道路工事や建築現場でも男に混じってサリー姿の女が土の入ったざるを頭の上に載せて運んだり、レンガを積んだり、ツルハシで穴を掘ったりしている。労働するからちょっとTシャツとスパッツに着替えてくる、というわけにはならないのだ。インド初の地下鉄がカルカッタで一部開通したが、地下鉄工事中も機械を導入する資金がないのでサリー姿の女性を含む人夫たちが手作業で労働に従事していたそうだ。他の国からはあの調子では開通するまでに100年はかかると言われていたぐらいである。そのありがたい地下鉄に私も乗ってみることにした。全線1ルピー。電車内は信じられないことに冷房が入っている。冷房ぐらいは当たり前かもしれないが、ここはカルカッタである。天井で回っている三枚羽の扇風機でもおかしくなかったのに。快適。喧噪と灼熱地獄の地上とは別世界だ。その地上へと昇っていくエスカレーターの前では男の子の手を握ったお父さんが必死になっていた。小さい頃、初めてエスカレーターに乗ろうとした時を誰もが覚えているだろう。動くステップに一歩を踏み出すのはなかなか難しいんである。お父さんが恐る恐る足を出す。タイミングが合わなくてつんのめりそうになる。もう一度足を出そうとするが、次々とせり出してくるステップが恐くて躊躇する。その横では奥さんが「あなた、がんばって」という顔つきで見守っている。そのうしろでは大勢のインド人が「落ち着けよ、あせるなんじゃないぞ。それっ、今だ」というような面持ちで真剣にお父さんを見つめている。小さな子供ならいざしらず、大の男が必死になっているのが笑える。インド人にとっては初めての経験だもんなあ。それはインド人のしつこさに辟易していた私にとって、今思い出しても頬のあたりが「むふふ」とゆるんでくる唯一の光景だった。
 終点で降り、カーリーガート寺院内にあるマザー・テレサの施設「死を待つ人の家」に行く。友人から言付かった医薬品をシスターに渡し、布に包まれた遺体をみんなで運んだ。帰りにカルカッタのメイン・ストリート、チョーロンギー通りを歩く。ここは世界一の人口過密都市と呼ばれるカルカッタにおいてもさらに人の行き来が激しい。夜になると明かりが少ないので、気をつけてないと人とぶつかるのはもちろん、往来に寝ている乞食を踏んづけてしまうこともある。その日もスリに注意しながら歩いていたのだが、いきなり、という感じで通りのまん中に10歳くらいの少年が寝ているのを見つけた。通行人はその少年をじろじろ眺めたり、一瞥しながら通り過ぎて行く。少年には両腕がなかった。上着を着ておらず、本来なら腕の付け根がある場所に赤黒いケロイドの皮膚が少し盛り上がっていた。少年は怒りも恥ずかしさも悲しみも感じさせない無表情な眼でただ空を見ていた。彼は一日中そうやって寝ているのだろう。しばらく見ていたが、彼にパイサやルピーを投げ与える者はいなかった。日本に帰ってから知ったのだが、本当に貧しい親は子供を不具にしてしまうそうだ。そうすれば子供は物乞いとして生きていくことができる。その少年がそうなのかは分からないが、私はやり切れない気分だった。
 人間はどんな環境においても順応していける動物だと私は思う。単純に貧しいから不幸だとか、豊かだから幸福だとかを言うことはできない。先進国にも苦しんで自ら命を断つ人はもちろんたくさんいるし、後進国から先進国の人間を見て、自分にはとてもじゃないがあんな生活はできないと思うこともあるだろう。幸福感というのは主観的なものなので、インド人が皆不幸であると思い込むことは先進国の人間が皆幸福であると思うのと同じくらい愚かなことだ。確かにインドは限り無く貧しいし、不衛生で識字率も低い。障害者も多いし、今もカーストやサティーやダウリー(注)という文化が存在している。悲惨だと言う人もいるだろう。しかし、同カースト内では相互扶助的に生活しているという例もあるし、サティーに至っては自ら進んで殉死する寡婦もいる。まるで藤子・F・不二雄の「ミノタウロスの皿」だ。それはパラダイムの見直しであり、「人権」というタームでは火の中に身を投じる寡婦を止めることはできない。我々の文化で彼らの文化を計ることはできないし、かといって全ての文化は等価だと言うこともできない。けれど少なくとも、もし、今度生まれ変わるとしたらインドと日本とどちらがいいかとインド人に聞いたら、ほとんどが日本だと答えるんじゃないか(今の私だったら必ずしもそうだとは思わない。その時代のその国に生まれて後天的に形成された言葉をも含む共通の価値観はそう簡単には越えられないからだ。日本人がアメリカに生まれたい、と思うこととは違う)。私はインド滞在中、ずっとそんなことばかり考えていた、っていうか考えられずにはいられなかった。それほどまでに当時の私にとって、インドはカルチャー・ショックだった。(つづく)
注 サティー 夫に先立たれた妻が夫の遺体と共に生きながら火葬される習慣。法律では禁止されたが、なくなったわけではない。
  ダウリー 花嫁の父から花婿に贈られる財産や持参金。ダウリーが少ないために姑に嫁が殺されたり、親の負担を案じて自殺した姉妹もいる。なお、カーストポルトガル語、ダウリーは英語から来ており、それらを表わす言葉自体インド語には存在しない。

 管理人マーキュリーマークの感想文と皆様への伝達事項
 内容が内容だけに幾つかの伝達が存在してます。インド国内は日本国内と同様に北海道の気候と沖縄県の気候が全く違うように極寒のヒマラヤに近い北部の標高が高い山々と赤道に近接しているスリランカに近い南部とは全く気候が違います。どちらかと言うと、今回はインドでも熱い町のカルカッタの海外旅行記です。
 昭和60年代のインドでは、エスカレーターに不慣れな大人がいたようです。 地下鉄が出来たのはそれだけ街が経済発展した証拠です。日本でも地下鉄の建設が行われた昭和の一時期には手堀が行われていたそうです。
エスカレーターに不慣れなインド人は階段は慣れておられたのでしょうか?階段は1970年代から利用されてたかもしれません。建物内で階段とエスカレーターの両者が利用出来る場所を見ると、つい連想する。
 自分の手で歯磨きも食事も行えなくなった10歳のとてもかわいそうな少年には再生医療が必要であるばかりか彼の両親には制裁が必要です。日本人の両親は一生懸命になって仕事をしている。無論、専業主婦の奥さんもおられます。日本国内における平成の親御さんは不景気でとても辛い思いをされています。中にはちゃんとした説明もなしに生活費を請求しようとする人もいて対応が出来ません。残念ながら一部、ロクな説明もなしに寡婦に対して経済的な援助を事実上求めてくるがゆえに、人の良心につけこむような人も日本にはいて大変困った事がありました。迷惑をかけてきた後だったから気分を害したので彼等に対しては自己責任で生活してもらいたいし他の寡婦が真面目に労働してる点を軽んじてるみたいで嫌悪しました。乏しい家庭であれば少しは考慮しますが乏しくないから説明を拒否したと思います。彼等一家は毎日ステーキでも食べてるのでしょうか?責任を果たさずに金銭を要求されるのは強要のようで否定する点についてはやむを得ないのではないでしょうか? 一方で、ドリアン長野は真面目に労働し家族を養っておられます。
 幸福論については、各自でお考え下さい。経済発展が継続していてインド企業が鉄鋼の分野で世界一であったり英国の自動車会社を傘下に収めた話もあるにはあるがまだまだ苦労が継続するようです。近隣諸国との戦争が勃発する恐れの噂についても頻繁に見聞きします。日本とインドを比較して何が幸せなのかは、繰り返すようですが各自でお考え下さい。とても難しいです。 スズキ自動車もインドで苦労したから今のインド国内での成功があるんです。
これが、世界の現実かもしれません。観光客向けのお店に行ったりおいしい食事をしたり楽しいスポーツをしたりだけではなく、奉仕活動で海外に行く人もいるんです。皮肉ながら、日本からマザー・テレサハウスに行くための航空券の販売競争は厳しいみたいです。日本国内で困ってる人を助けることも重要だとは思います。海外旅行代理店同士の競争は激化してる。
 この旅行記を読むと、日本には日本なりの自由があると再認識しますね。教育は重要で責任を果たしたから得られる権利は存在するから「知識は力なり。」と言われてる。





#28 インド編 その4 (リターンズ)
2012-03-01 | Weblog
 インディア・エアラインでデリーにやって来た。空港から市内行きのバスに乗る。運転手と客のやり取りを聞いていたのだが、ヒンディー語だと思っていたのが英語だと判明するのに30分かかった。ちなみにインド英語の特徴は th をタと発音し、R をはっきりと発音する。だから thirty はターティーとなり、master はマスタルになる。
 その運転手にホテルを紹介してもらい、宿泊した翌朝のこと。起きると下痢と頭痛と悪寒とおまけに脚の関節まで痛い。これは赤痢コレラか肝炎か。インドの地で客死したら骨はガンジス河にまいてくれ。後は頼む、って私は一人旅なので自分で何とかせんといかんのだ。食欲はないが、喉がやたらと渇くのでメイン・バザールでミックス・ジュースを飲む。路上のジュース・スタンドなのだがこれがものすご~くうまいのであっちこっちで10杯ほど飲み倒す。
 1月の北インドの朝は寒い。栄養不良のせいもあって毎年、路上生活者が凍死するほどだ。それでなくても寒気がするのでセーターを50ルピーで買う。もう値切る気力も残っとらん。それにしてもニューデリー駅前って敗戦直後の日本の焼跡地みたいだ。朝になるとみんなが路上の至る所で商売用か自炊のための火をおこし、わらわらと人や野良犬や野良牛が集まり始め、その人ごみの中をタクシーやリキシャーが縫うようにして通り抜けてゆく。道端では男たちが座り小便をしている(なぜかインドの男たちは座って用を足すのだ)。
 メイン・バザール(バハール・ガンジ)はその駅前にある、安宿や食堂や映画館や雑貨屋等が立ち並ぶ通りだ。今日の夕方にはベナレス行きの列車に乗らなければならないので、駅のクロークに荷物を預けてからうろうろしようと思っていたのだがっ。だっ、駄目だあ~。苦しい。もう一歩も動けん。このままでは死ぐ。ホテルで休ませてもらおうと日本人に人気の「ホテル・パヤール」に行き、「2、3時間やずまぜで~」と息も絶え絶えに頼むと心良く了承してくれた。「だけど一泊分の料金はもらうよ。30ルピー」と付け加えるのを忘れなかったが。 
 屋上の部屋に案内される。隣の部屋の中年の日本人はインド滞在2か月だそうで、パチパチとタイプライターを打っている。屋上のデッキチェアで昼寝をしに来た日本女性三人は「あの人(私のこと)、病気なんだって。私、薬持っていてあげよう」と話をしていた。私はベッドで苦しみながら期待して待っていたのだが、来なかった(おいっ)。
 しばらく横になった後、ホテルを出て駅に行く。預けていた荷物を引き取ろうとすると、クロークのおっちゃんが、「4時15分にならないとここはオープンしないよ」とぬかす。冗談じゃねえ。おれの持ってるチケットは10分発なんだよ。だから開けてくれ、開けろってんだよ。開けろ~っ! 頼む、開けてちょうだい。ね、少しだけだから。開けてくださいまし。開けてくれないと困っちゃう~。開けてったら開けてぇ~。ねえったら、ねえ~ってば~。とすごんだり、すかしたり、傍らのインド人も見かねて加勢してくれるのだが、おっちゃんは「駄目だ」の一点張り。普段は「いいかげん」を絵に描いて額に入れて壁に飾って一人50パイサでお金を取って鑑賞させるほどルーズなインド人がどうしたってんだ。結局、発車時刻を逃してしまった。しかし、インドの列車は10分、20分の遅れは定刻のうちで、平気で4、5時間遅れることはざらにあるとは後で知ったこと。この時も私の乗る列車がまだ到着してなかったことは充分考えられる。とにかくプラットホームに出て、そこら辺の人に次のべナレス行きの時間を聞いてみた。でも8時半だとか11時だとか1時とか人によって言うことが違う。窓口で聞こうにも大勢の人間が殺到していて、下痢と発熱で弱っている私にはそこへ突っ込んで行く気力はもはや残っていなかった。
 「インド、あんたの勝ちや」 私はへなへなとその場にうずくまった。「何でインドなんかに来てしまったんやろ~。もし生きて日本に帰ることができたら、今度はハワイに行くぞお」とわけの分からんことをうわ言のようにつぶやいている私に、「どうしたんだ?」と一人のおっちゃんが声をかけてきた。(つづく)   

 管理人マーキュリーマークの感想文と皆様への伝達事項
 このインド旅行記は周知のように2000年以前どころか昭和の旅行記です。
 やっぱり言葉の壁は大きいようです。ドリアン長野自身は英会話が行える人物ですがインドの英語は難しく感じたようです。
また、日本国内に居住していても普段から納豆やヨーグルトを食べて胃腸を健康に保つようにするべきだと思います。アレルギー性胃炎という恐ろしい病気も存在します。
 インド北部の寒い地域で下痢で苦しんだとしたらもしかするとノロウイルスかもしれませんね。文面から考えるに公の場でノロウイルスが拡散されている恐れがあります。
ミックスジュースですがバリューローソンで1リットル¥108でおいしいミックスジュースが販売されているので私はそれを買いたいですね。
 インドは、日本と同じ様に北部と南部で気候が全く違います。インド北部と言えば極寒で有名なヒマラヤ山脈が有名です。インド南部と言えばカシューナッツで有名なケーララ州(ケララ州とも言われてる)やスリランカよりのタミル・ナードゥ州が有名でとても暑い町であるのは想像に難くありません。
 インド人は公表している時刻表については守らないようですが、日本人の場合は時刻表を守ります。一方で日本人はかけ声倒れが好きというか提案だけで実行(今回は人助け)しない人も多くいます。カナダのスカイトレインは時刻表は無いが頻繁に電車がやってきた事を連想します。
 現在、インディラ・ガンディー国際空港(略称 DEL)では空港連絡鉄道が利用出来るようになってますので過去のようにバスを利用する人が多いか否かは不明です。一説によると料金前払いのプリペイドタクシーも存在するそうです。空港を後にしてから次にどういった行動を取るかについては日本にいる間に考えておく事を推奨します。
 この旅行記を読んで普段あまり使わないがたまに用いるお薬を持って海外旅行に行く人もおられたと思います。医者と相談して普段よりも多めに投薬してもらうことも重要で薬店で使えそうな薬を幾つか購入しておいても悪くないです。事実、私はそうしました。海外旅行保険も加入しましたけどもね。一日だけちょっと疲れた日があったがそれ以外は何とかなりました。
 私もバンクーバーを旅行中に同じ日本人観光客の一団に何度か会いました。その中に沖縄県から来られた日本人女性3人組でした。その時、私はスタンレーパークのバンクーバー水族館(略称 vanaqua バナクア)に行きたかったのでバス停近くで待っていたら彼女達がバナクアに行ってきたらしく感想を聞いたら「良かったですよ。」と教えてもらったので安堵しました。実際に行ってみたら本当に良かったです。日本人の感想は重要ですね。だけど、日本人がよくやる悪い行動の中の一つに掛け声倒れというか提案のみで実行しないのは良くないと思います。だから「千の言葉よりも一の実行。」と言われてる。1 practice better than 1000 words .
 そういえば、私はバンクーバーの在外邦人に助けてもらいました。とりあえず、お水を買っておかないと生活が成立しません。ノースバンクーバー市のロンズデール・キー港からバンクーバー市のウォーターフロント駅へ行く為のシーバス(船)に乗った時なんですが現地在住の日本人女性に出会いました。それで始めは適当な英語を喋ってましたが日本語を話すようになりました。お水を買うためにブリティッシュコロンビア州では有名な小売店のロンドンドラッグ迄案内してもらうことになりました。そして、バンクーバーシティセンター駅前で営業してるロンドンドラッグに案内してもらいました。彼女は仕事があるのでそこで離れました。私は一人旅の最中であったのでロンドンドラッグで無事にお水を買って一人でホテルに戻って熟睡しました。時差ボケは並の苦しみではありませんでした。海外旅行中に在外邦人(日本人女性)に助けてもらったどうかで旅の楽しみは大きく変わるかもしれません。ドリアン長野は日本人女性に助けてもらわなかったが、私は在外邦人の日本人女性に助けてもらいました。
 電車の運行に限っては前もってインターネットで調べておいても、運行してる会社がいい加減で遅延が多いとあまり信頼出来ないかもしれません。従って、ある程度の余裕を持って行動する事が重要です。日本と海外では大違いです。
 以下はホテルでの滞在に限定したお話です。ホテルによって経営方針は違いますので全てに該当するか否かは各自で調べてもらいたいですが、日本国内で前もって予約をする時に空港に到着する時間からホテルに到着する時間を鑑みて本来の入室の時間前に利用が行えるようになる予約をされるばかりか空港に出発する時間迄あえて退室を遅延させる予約をされる利用者もおられるようです。無論、単純にドリアン長野のようにホテルで休憩される人もいるようです。
 私の場合は、バンクーバー国際空港(YVR)からホテル迄、送ってもらうバスを予約したからか本来の入室時間よりも早めに入室しても一切問題がございませんでした。アーリーチェックイン(早期入室)が実質無料であったようなものです。
 実は、全く逆に空港から飛行機が出発する帰国便の時間の為にホテル内にてあえて遅延の滞在を選ぶ旅行者がおられるようなんです。ニューカレドニア旅行の時にそういった選択をされる観光客が多いらしいです。ホテル側も理解されてるからそれなりの提案をされてるようで決して寝過ごし等の迷惑行為ではない点は強調します。遅延の滞在も予約の対象になってると考えてもらえると幸いです。アーリーチェックイン(早期入室)やレイトチェックアウト(遅延退室)の詳細は各自でお調べください。

冒頭の画像ですがドリアン長野がインド国内で複数の町に行ってきたことから複数の町の位置が分かりやすい地図を紹介しました。 

ヤフーブログの文字数制限が2万文字なので前編と後編に分割させていただきます。

紹介した幾つかの動画はドリアン長野並びに私(マーキュリーマーク)が撮影したものではなく、参考の為の転載です。


 

 回顧を兼ねた書評
 僕の初海外旅行は26歳の時のインドだった。
 当時往復チケットは年末料金だったので30万した(泣)。
 行く前は椎名誠の「わしもインドで考えた」を熟読。
 インドでは尻の毛まで抜かれるほどぼったくられ、下痢と発熱で散々だったけど、
 それからはリーマンパッカーとして主にアジアをふらふら。
 アフリカは遠すぎて行けなかった。新婚旅行もバックパックでバンコクと香港へ。
 香港では雑居房のチョンキンマンションで二泊し、妻はぐったりしていた。
 バンコクでは安宿と高級ホテルと泊まり歩き、マリオットのプールで
 溺死しそうになったのは今ではいい思い出だ(嘘)。
 旅も好きだが、旅行記も好きだ。
 この本は主にアフリカ旅行のエッセイだが、面白い。
 何よりも文章がうまい。
 奥さんとのなりそめを綴った「追いかけてバルセロナ」なんか疾走感があり、
 一気に読め、感動的でさえある。
 朝の通勤の地下鉄で読んでたけど、日本にいながら気持ちはバックパッカー。
 旅の本もいいけど、また出かけたいなあ。