「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」
この本を読んで確信した。木村政彦は空前絶後、不世出の柔道家である。ヘーシンクもルスカも山下泰裕も木村の敵ではない。木村が大外刈りをかけると相手は受け身がとれず、失神する。寝技をかけられたら逃れる術はない。
1951年、リオのマラカナンスタジアムで行われた伝説の対エリオグレーシー戦ではエリオに腕がらみを極め、タップをしないエリオの腕を折ってしまった。この敗戦をグレーシー一族は「マラカナンの屈辱」と呼び、木村の強さを讃え、腕がらみを「キムラロック」と名付けた。
そして1954年、昭和の巌流島決戦といわれた対力道山戦。この試合は八百長、いや片八百長であった。力道山は念書を反故にし、途中からセメントで木村をめった打ちにし、足蹴にした。リング下で拓大の先輩であり、木村を師と仰ぐ大山倍達が激昂して、
「力道!俺がこの場で挑戦する!」と叫んだのは有名な話である。
「俺が大山を認めたのは、木村と力道山が試合した時、大山が力道山の残忍さに憤慨し、同じ韓国人である力道山に『貴様は武士の情けを知らない卑劣な男だ。俺は貴様を殺す!』と言ったんだ。俺はこれを聞いて、こいつはいいやつだ、立派な男だ、天晴れだと思って付き合っている。しばらく会っていないが、時々手紙をくれるんだ。いい男だよ。」
エリオ戦の話に戻る。晩年のエリオは語っている。
「私はただ一度、柔術の試合で敗れたことがある。その相手は日本の偉大なる柔術家木村政彦だ。彼との戦いは私にとって生涯忘れられぬ屈辱であり、同時に誇りでもある。彼ほど余裕を持ち、友好的に人に接することができる男には、あれ以降会ったことがない。50年前に戦い私に勝った木村、彼のことは特別に尊敬しています」
腕が折れても最後までタップしなかったエリオもまた、真の格闘家である。
著者は言う。
「われわれは忘れてはいけない。柔道とブラジリアン柔術が同根であるだけではなく、あの木村政彦vsエリオ・グレーシー戦こそ、世界のあらゆる格闘技の歴史のなかで最も大きな事件だったことを。現在の総合格闘技も、あの試合があったからこそ存在するといっても過言ではなかろう」と。
対力道山戦後、木村は不遇をかこった。木村が旗揚げした国際プロレスも解散した。師の牛島辰熊の勧めで拓大柔道部のコーチになろうとしたが、理事長の西郷隆秀(西郷隆盛の孫)が拓大復帰を許さない。プロレスをやったりキャバレーを経営する木村の人間性に懐疑的だったのである。
「西郷の気持ちを解かしたのは、その年の暮れであった。西郷帯同の拓大柔道部九州遠征である。もちろん柔道部OB会は英雄木村政彦を酒席に呼んだ。西郷はあまり面白くなかったであろう。だが、宴たけなわの頃、木村が西郷のもとに来て小声でこう言ったのだ。
『妻の体調が悪いのでお先に失礼させていただいてよろしいでしょうか…』
この一言で西郷の木村を見る目が変わった。ある重鎮OBが教えてくれた。
『あのとき拓大柔道部が拾わなければ、木村先生は必ず乞食になっていた。それくらい金に困っていたんです』
木村の、妻斗美(とみ)への愛が、木村自身を救ったのである。」
鬼の木村はまた、愛妻家でもあった。大山倍達は言う。