上海日記 一日目から四日目迄(ヤフーブログ版)

上海日記 一日目から四日目迄(ヤフーブログ版)

NO56 上海日記 1日目

at 2005 01/15 21:22 編集

12月19日
年下の友人K君から何年か振りに電話があった。四方山話のうちに彼が言った。
「ドリアンさん、僕今年パスポート取ったんですけど、一緒に海外旅行行きませんか」
「そりゃいいけど、年末まで10日しかないで。もうチケットは残ってへんで。あったら奇跡やわ」
「奇跡ですか。可能性としたら何パーセントくらいですか」
「まあ、消費税くらいやね」
「5パーセントですか.....。ドリアンさん、こんな話を知ってますか。本田技研の創業者の本田総一朗はですね、小さな町工場から始めてですね.....」
K君はなぜか突然熱く語り始めた。
「ですから、たとえわずかな可能性でもそこに賭けてみるのが男のロマンかと.....」
「わかった、わかった。君の言いたいことは、よ~くわかった。インターネットで調べてみるけど、あんまり期待せんといて」
と言って電話を切って、一応検索してみることにした。リーマン・パッカーは年始年末と盆休みとゴールデン・ウィークしかまとまった休みが取れへんからなあ。俺も半年くらいアジアを放浪してみたいで。バンコクはっと......。やっぱり満席やがな。インドもどっこも満席や。不況いうても年末になると日本人はどっと海外に行くからなあ。どこが不況やっちゅう話やねんな。日本人は兵役みたいに全員一週間インドに行くことを義務づけたらええと思うわ。正月ハワイに行くやつは死刑や。ロサンゼルスに行くやつは帰ってこんでええ、って俺は小言じじいか。過去になんかあったんかいな。マニラも一杯や。当たり前やな。年末のチケットいうたら二か月前から予約すんで、フツー。ラオスミャンマーも直行便飛んでへんからなあ。一週間の休みやったら無理や。
北京も駄目、上海は、おっ、あった。あったがな、こんな時期に。やっぱり本田は偉大や(なんのこっちゃ)。早速、K君に電話する。
「奇跡は存在したで。上海行きあったで」
「えっ、本当にあったんですか」
あんなに熱く語ったはずのK君の声はものごっつう不安気だった。Why?

NO57 上海日記 2日目

at 2005 01/18 22:23 編集


12月20日
K君はほんまにびびっていた。初めての海外旅行なのはわかるが、それにしても尋常ではない。
「危険な所に行くのはやめましょうね」
「上海に危険な場所はないっちゅうねん(あったら行ってみたいわ)」
「ドリアンさんも日本に待っている人が大勢いると思いますから、くれぐれも無事に帰国しましょう」
「俺たちはイラクに行くジャーナリストとちゃうで」
「お金はいくらかかっても構わないので、命を最優先に考えて下さい」
「君は自衛隊の中隊長か。でも、ひょっとしたら無言の帰宅ってこともありえるなあ」
「ええっ!」
びびっているやつをいちびる(からかう)のは面白い。
その夜、K君からメールが入った。
「中国ってビザいりますよね。 今からでは間に合わないのでは?」
すっかり忘れてた。
慌ててインターネットで調べ、池袋にあるビザ取得代理店にパスポートを明日一番の宅配便で送ることにした。果たして間に合うのか。K君から電話。
「その代理店、大丈夫なんでしょうね、パスポート送っても」
「もしかしたら歌舞伎町の蛇頭(人身売買をするスネークヘッドという犯罪組織)に横流しされるかもね」
「ええっ!」
K君の心配は尽きないのであった。


NO58 上海日記 3日目
at 2005 01/25 23:50 編集
12月30日
「全員整列、番号!」
「1」
「2」
「これからわれわれ上海使節団は上海に向けて出発する。何か質問は?」
「チャイニーズ・マフィアには充分気をつけましょう」
「そんなものはおらん!」
「危険だと思ったらすぐ引き返す勇気を持ちましょう」
「われわれはK2に登りにいくんじゃない!」
ビザはやっと出発前日に届いた。ただ、ガイドブックを読んだら2003年9月から15日間以内の滞在ならビザは不要と書いてあったが。(1万円返せ!)
関空に到着したK君は不安で寝不足と食欲不振が続き、蒼い顔をしていた。
とにもかくにも上海に到着したが、入国検疫申告書を書くのを忘れていたわれわれは係員に呼び止められ、そこで書け、とあごで指示される。初めて接する中国人の横柄な態度にK君はびびる。入国審査を待っている時も行列の中国人同士が割り込みでケンカを始めた。K君、ますますびびる。
「レンミングァンチャン(人民広場)!」
空港前で待っているバスの女性車掌に声をかける。彼女は「満席だよ。次のにしな」と答えた。(私は中国語がわからないので、英語以外は推測です)
「次は何時?」
「10時だよ(夜の)」
「あと40分もあるやん!」
日本語で言うと、「しかたないね。乗りな」とバスの入口を指し示す。バスが動き出したので、外を見ると雪が降り積もっている。凍結した道路では追突したり、ガードレールにぶつかった車を何台も見た。人民広場で降り、地下鉄を探すがむちゃくちゃ寒い。このままではホテルにたどり着く前に凍死してしまうではないか。はんぱねー!歩いていると寒いので全速力で疾走し、コンビニを見つけると飛び込み、道を尋ねるついでに暖をとる。ようやく見つけた地下鉄(中国の地下鉄の出入口は明かりがついていないのでわかりづらい)で河南中路駅まで行き、そこから歩く。われわれが目指すのは浦江飯店だ。外灘(バンド)で、いや上海でバックパッカーが泊まるホテルといえば、ここしかない。空室があればいいが。もうすぐ日付けが変わる。

NO59 上海日記 4日目

at 2005 02/02 20:17 編集

12月31日
7時半起床。トイレの窓から外を見ると一面まっしろ。黄浦江を巡航する船の警笛が聞こえる。浦江飯店はバンドで一番古いホテルだ。チャップリンアインシュタインもお泊まりになられたが、宿泊費は高くない。バックパッカーの御用達になっているのはドミトリーがあるからだ。ホテル自体は租界時代に建てられただけあって、アールデコで趣がある。われわれの泊まった二人部屋の前は吹き抜けになっていて、広い廊下には租界当時の調度品が展示されていた。
昨夜は12時前にチェックインした。空腹だったが、寒波の中を出ていく気にもなれず、ルームサービスでチャーハンを食べた。眠りについたのは2時過ぎだったと思うが、K君は不安でほとんど寝ていないそうである。そこまでテンパってたら、しまいにゃ死ぬで。われわれは気合いを入れて空手着に着替えた。上海で空手と太極拳の交流をしようという日中友好的な計画を立てていたのである。場合によっては異種格闘技戦も辞さぬつもりだ。カンフーでもなんでもかかってこい(どの辺が日中友好やねん)。意気込んで飛び出したのはいいが、ほんまにものごっつうハンパじゃなくひたすら寒い。いつもは物売りで足の踏み場もないほどの外白渡橋も今日は誰もいない。目指す黄浦公園はホテルから走って3分ほど。公園の入口で警備のおっちゃんに「滑るから気をつけな」と声をかけられた。
太極拳は?」
「寒いから休みだ」
いきなり計画失敗。寒さに異常に強い中国人もさすがに今日は無理?って感じ? 口ほどにもないぜ、今日はこのくらいにしといたるわとバンドの凍結した遊歩道をこけながらジョギングして帰ったのだが、われわれ日本人の姿はよほど奇異に見えたのであろう。ホテルの従業員にじろじろと見られる。この寒波になんて物好きなってか。おれたちは見せ物じゃねえ、散りな。しっ、しっ。今度泊まりに来た時は帝国陸軍の軍服で来てやるぜ。日本鬼子と書いた鉢巻きを締めてなって、冗談っすよ。冗談。そんなにムキにならなくてもええやんか~(誰に言うとんじゃ)。

NO60 上海日記 4日目(続)

at 2005 02/09 22:13 編集

部屋に戻ろうとすると、廊下の展示品を見ている二人の日本人がいたので声をかける。彼らは6階のドミトリーに泊まっているそうだ。
「僕らも昨日の夜に上海に来たんですけどね、ドミに金城武そっくりの男が泊まってるんですよ」
「えっ、金城武!」
「ほんとにそっくりですよ」
「まさか本人じゃあ.....」
「見に来ますか」
「行く行く行く!」
ここのドミは男女別になっているそうだ。部屋も清潔で窓からはほんのわずかだが黄浦江が見える。彼らの他には日本人と韓国人が一人づつ泊まっていた。韓国人が聞く。
「何でそんなかっこしてんの? パジャマ代わり?」
「公園をジョギングしてきたんだ」
「はっはっはっ。クレージー
ほっとけ。
「あれ? さっきまでいたのにな。出かけたみたいですね」
あ”~っ、残念。タケシ、私をおいてどこに行っちゃたの。
「タケシの寝ていたベッドはどこかしら?」
「は? あそこですけど」
「タケシ~」と叫んでベッドに飛び込む。
「.............。私、別に変態じゃないからね」
「は、はあ~」
「われわれはこんなことしてる暇ないねん(お前が勝手にやってただけやろ)。早いとこ、このホテルをチェックアウトして新しいホテルに移らんと」
「どこに泊まるんですか」
「ピース・ホテル」
「あそこ、空いてるかなあ。昨日も満室だと断られて、ここのドミに来た人がいましたから」
「とにかく行ってみるわ。タケシに会ったら、よろしく言っといて」
ピース・ホテル(和平飯店)は上海銀座の南京東路を挟んで北楼と南楼がある。和平飯店といえば、バンド。バンドといえば、和平飯店だというくらい、バンドを象徴するホテルである。一生に一遍だけ泊まってみても罰は当たらんだろうと思ったが、今日も明日もあさってもやっぱり満室だった。仕方なく、その日はバンドの対岸にあるホテルに泊まる。部屋から小学校の校庭が見えるのだが、この寒さにも何のその、大勢の大人がダンスを踊っている。今日は大晦日やったなあ。それにしても寒くないんか?

NO61 上海日記 4日目(続々)

at 2005 02/16 23:29 編集

その夜、オールドバーでジャズを聴くために再び和平飯店を訪ねた。メンバーは平均年齢70歳台の老人であり、このホテルの名物である。大晦日のせいか、満席で少し待たされたが、相席でテーブルに着いた。アメリカンスタイルのカウンターやローソクのシャンデリアが租界時代を想わせる。一時間ほど演奏を楽しんだ後、和平飯店を探索することにした。もう十何年も前のことだが、桐島洋子さんの本でこんな文章を読んだことがあったのだ。
「和平飯店は40年前にはじめて上海に渡ったときにしばらく滞在したキャセイ・ホテルであり、このホテルこそ私にとって外国の原体験なのだ。幼い私が絶望的に長い廊下を魔法使いに追いかけられながら必死に走る夢を今でも私はときどき見るが、それは明らかにこのホテルの廊下であり、魔法使いの方はディズニーの白雪姫の継母である。40年ぶりに歩く廊下は気味が悪くなるほど夢の中の景色のままだった。」 (大草原に潮騒が聴える)http://amzn.asia/0Hyeswq
その幻想的な廊下のイメージは上海、キャセイ・ホテル(和平飯店北楼)、といった妖しい響きと相俟って、まだ海外に出たことのない私の脳裏にしっかりと刻み込まれた。その長年抱いてきたイメージがついに目の当たりになろうとは。エレベーターで階ごとに降り、廊下を歩く。赤、階によっては青の絨毯が壁の淡い照明に浮かび上がり、進むにつれて租界時代にタイムスリップしていくようだ。南京条約によってイギリス軍が上海を開港し、さらには欧米列強諸国が管理する共同租界となったバンド。極東最大の都市、アジアの貿易、金融の中心地、日支間の思惑が交錯した国際都市、魔都、上海。初めて足を踏み入れた和平飯店は私にとっても想像と寸分たがわぬ光景だった。

NO62 上海日記 4日目(続々々)

at 2005 02/21 23:38 編集

ホテルを出て帰ろうと南京路を歩いていると、逆方向からわさわさと人が歩いてくる。しばらくすると今度はばらばらと大勢の人が走ってきた。時計を見ると12時前。われわれも急いで彼らについていく。バンドの地下道は人民であふれている。暗いので物乞いを踏んづけてしまった。ご、ごめん。あっ、今度は物売りを踏んづけた。遊歩道に出ると、人民と外国人で立錐の余地もない。カウントダウンが始まり、新年になるとあちこちで花火が上がる。2005年の始まりは上海だったかと感慨にふけりながら歩いていると、途中で浦江飯店に宿泊していたバックパッカーたちと出会う。彼らもバンドでカウントダウンを祝い、今から同宿の9人で飲みに行くそうだ。一緒にと誘われたが、われわれは酒を飲まないので残念ながら辞退した。私はドミトリーにはほとんど泊まったことがないのだが、ドミもいいもんだな~と思う。地下鉄が止まっていたので、タクシーを捕まえようとするが、空車が走っていない。近くの交差点で客を降ろすためにタクシーが停まったので、猛ダッシュで飛びつく。血相変えながら日本人が飛び込んできたので、運転手もさぞかし驚いたことであろう。それにしても、どのタクシーも助手席と後部座席は強化プラスチックで運転席と完全に分離されている。上海も物騒になったもんだ。1時帰館。

 皆様への伝達事項
ドリアン長野が2010年以前に作成し発表した海外旅行記ですので現在とは状況が異なる部分が多々あるかと思います。影響を与える事が出来ても責任は取れませんので参考にしてもらう分には構いませんが模倣は不可能になってるやもしれません。皆さん、元々は平成17年に発表されました。平成十年代は消費税が5%でした。私はKさんではございませんし私はドリアン長野とは一緒に海外旅行に行ってません。海外旅行が行えるようになった事を喜ぶべきであって喋ることだけを喜ぶのが目的ではいけません。Kさんはドリアン長野にダメダシをしたかったのか?海外旅行をするかしないかは本人が責任をもって行うべきであって第三者に責任を押し付けてはいけません。
海外旅行の為には日本国内で幾つかの手続きをする必要がございます。実質的に国内旅行を済ませてからでないと海外には行けない人は数多く私も幾つかの町を訪問した後でパスポートを所得しました。ビザ等の法曹面は頻繁に変更されるので各自で各国の最新情報を調べてください。
海外旅行代理店に注文する前にパスポートの所得を済ませるばかりか必要ならビザの申請も終えておきましょう。ご存知の人も多いでしょうが海外旅行代理店ではパスポートの確認が行われることは多いので提示しましょう。
日本の治安も悪化してはいますがそれでも海外よりは治安が良くて気楽です。
日中間の外交問題が平成20年代に比べて小さかった平成10年代の上海旅行記だということを前提にお読みください。
上海(中国)の治安・危険情報 | 現地を知り尽くしたガイドによる口コミ情報【トラベルコ】 https://t.co/dt8cEwAFvB
— ドリアン長野 (@duriannagano) 2017年11月19日

平成二十年代になって上海にも危険な町が存在するらしく皆様、お気を付けください。一旦、上海に行ってからウイグル自治区カラコルム山脈のK2に行く人はおられるそうです。K2は、標高は8,611mでエベレストに次ぐ世界第2位の高さです。
PM2.5は平成十年代には日本に飛んできていたと言われているから中国の大気汚染は深刻なようです。平成20年代になって実際に上海に行った人によると、スモッグが凄まじいそうですのでマスクは必要らしいです。
上海の鉄道は平成二十年代になって平成十年代よりも延伸を果たしたそうで、空港連絡鉄道を利用する人は多いようです。
ホテルの予約、往復の航空券の予約、海外旅行保険の加入をしないままで海外の町に赴く行動について私は推奨しません。
浦江飯店は中国に対して否定的な人も少々驚く見た目は良いホテルのようです。
食事なんですが、ホテルにもよりますがやはり外国人観光客がやってくることを考慮してか多少遅い時間であっても食事が行える体制作りをしてるホテルは国の内外を問わずに多いようです。ドリアン長野とKさんは上海で炒飯が食べれて良かったんではないでしょうか?
上海の冬場は厳寒のようで氷点下に至る事もあるようです。
皆さん、寒い国へ行くならば防寒着は着用するか持って行きましょう。防寒性能が高い靴の保有も考慮してください。ただ、海外旅行前にどういった服装をするかですが日本国内においては常識が疑われない姿にしておきましょう。日本は日本です。飛行機に長時間乗って現地に到着すると気候が日本とは全く違う事はあり得ます。私が行ってきた10月のバンクーバー大阪市内と比較して少なくとも五度は低い程度で秋でした。そういえば、平成10年代のある日、30度を超える6月の暑い大阪府関空から北海道の帯広市に行くと8度であった過去も連想しました。日本国内でも気温の変化は大きいです。
ダンスは良いけれども、太極拳は寒いから中止。厳寒であるがゆえに空手の道着を着用して公園をジョギングしたらコリアンから「クレイジー。」と冷やかされる。辛いですね。
「和平飯店(ピースホテル)。」と聞いただけでは見当がつかない人でも「ピースホテルはフェアモントの系列。」と聞くと驚かれる人は多くおられると思います。


平成10年代に平均年齢70歳台の老人達は平成20年代にも生きているのでしょうか?案外、現在でもオールドバーでジャズを演奏してるかもしれません。夢を現実に。著作で紹介された場所へ実際に赴くと感動すると思います。その感動の度合は、距離が自宅から遠い分比例してくると考えられます。 意外に思われるかもしれませんが、ホテルそのものが観光名所になってるようです。
 やはり、香港ばかりか上海が英国の影響を受けていたのは小さくないようです。





管理人 マーキュリーマーク
 

 回顧を兼ねた書評
 僕の初海外旅行は26歳の時のインドだった。
 当時往復チケットは年末料金だったので30万した(泣)。
 行く前は椎名誠の「わしもインドで考えた」を熟読。
 インドでは尻の毛まで抜かれるほどぼったくられ、下痢と発熱で散々だったけど、
 それからはリーマンパッカーとして主にアジアをふらふら。
 アフリカは遠すぎて行けなかった。新婚旅行もバックパックでバンコクと香港へ。
 香港では雑居房のチョンキンマンションで二泊し、妻はぐったりしていた。
 バンコクでは安宿と高級ホテルと泊まり歩き、マリオットのプールで
 溺死しそうになったのは今ではいい思い出だ(嘘)。
 旅も好きだが、旅行記も好きだ。
 この本は主にアフリカ旅行のエッセイだが、面白い。
 何よりも文章がうまい。
 奥さんとのなりそめを綴った「追いかけてバルセロナ」なんか疾走感があり、
 一気に読め、感動的でさえある。
 朝の通勤の地下鉄で読んでたけど、日本にいながら気持ちはバックパッカー。
 旅の本もいいけど、また出かけたいなあ。