#45 カトマンズの夜 (リターンズ)

#45 カトマンズの夜 (リターンズ)
2013-03-01 | Weblog
NO45 カトマンズの夜

at 2004 04/27 23:23 編集

中山可穂の「熱帯感傷紀行ーアジア・センチメンタル・ロードー」を読んでいたら、次のような文章にぶつかった。著者はインドネシアを旅していたのだが、「店内のラジオからは、マントヴァーニ楽団の『ブルー・タンゴ』が流れていた。まさかこんなところで、アメリカ製タンゴの名曲を聞けるとは思わなかった。」
僕は、ああ、分かるなあと思った。僕もカトマンズのタメル地区にある古本屋の二階で日本語と英語のペーパーバックを眺めていたら、ラジオからビョークが聞こえてきたことがある。曲名は思い出せないが、ネパールでビョークという取り合わせも妙なもので、年の暮れということも相俟って、異国で独りという寂寥感が身に染みた。
カトマンズに行こうと思い立ったのは、タメルという場所がバンコクのカオサンと同じように世界中のバックパッカーで賑わっていることを本で読んだからだ。ネパール人と異国のバックパッカーが交錯しながら食事をしたり、土産物を売ったり買ったりしている光景を思い描くと居ても立ってもいられなくなった。
夕刻にネパール空港に到着。ロッジのようなイミグレーションを通過し、外に出てタクシーを拾う。数十分走ったが、王宮の前で突然、エンストした。運転手に聞くと、何とガス欠らしい。彼は車外に出て、通りを見つめている。どうするのかと思って見ていると、やがて通りがかったタクシー仲間を捕まえてガソリンを分けてもらっていた。タメルに着いた頃には辺りはすっかり暗くなっていたが、なるほど土産物やホテルや食堂が櫛比し、賑わっている。適当な安宿にバックパックを下ろし、街に出てみた。タメルはカトマンズにおいても異質な場所だと思う。ニューヨークがアメリカにとって特異な都市であると同じ意味で。外国人と牛と地元の人間で賑わっている往来をぶらぶらと歩いていると、小さなスーパーマーケットがあった。そこが気に入って、タメル滞在中は日課のように通った。外国人に混じって食料品を買っていると、不思議と心が安らいだ。多分、一人であっても一人じゃない距離感が好きだったからだろう。食堂では、よくモモ(水牛肉の餃子)とチョウメン(焼きそば)を食べた。席に着いてから最初のお茶が出てくるまで20分、最後の食事が出るまで一時間かかった。白人の客が「ネパールタイムだ」と言うと、他の客はあきらめのような、連帯感のような笑いを洩らした。
ひょんなことから、あるネパール人夫婦と意気投合し、彼らの知り合いの家へ招待されることになった。その家は日本大使館のすぐ側にあり、門扉から玄関まで歩いていくような、ネパールの生活水準からすれば充分すぎるほどの大豪邸だった。主人のチャンさんは台湾出身で、台湾の電化製品をネパールに輸入して成功した人だ。熱心な仏教徒でもあり、広い居間の一角にしつらえた祭壇へのお祈りは毎日かかさない。チャンさんは言う。「あなたが今日ここに来たのは、あなたが生前ネパール人だったからだ。今度ネパールに来た時はホテルに泊まらず、うちに泊まりなさい。いっそのこと、ネパール女性を紹介するから結婚してこっちに住んだらどうですか」。帰りは夫婦にタクシーでホテルの近くまで送ってもらった。食堂に入り、3人でチョウメンを食べた。縁って不思議だね。そう言って3人で笑った。ネパールに来てから三日目だった。
知り合いから知り合いに紹介され、滞在中は数珠つなぎに知人が増えていった。誰もが親切にしてくれた。ネパール人は日本人に似ているところがある。控えめで内気で、外国人に対しては親切にせざるをえない。それに加えて男たちは眉間のあたりに矜持といったものを漂わせていた。彼らの信仰する神のせいなのか、それとも貧しさによって自らを恃みにしなくてはならないからだろうか。勇猛果敢なネパール人はグルカ兵としてイギリスの傭兵になったこともある。僕は日本のサムライと彼らを重ねあわせることもしばしばだった。                 
たとえば、こういうことがあった。ジョッチェンの広場で少年たちにババ抜きを教えて遊んでいた。しばらくトランプをしていると、後ろから肩を叩かれ、知り合いの大人たちから「メシを食べに行こう」と誘われる。「すぐ戻ってくるから」と中座し、彼らとしゃべっているうちにトランプのことは忘れてしまっていた。あくる日、その広場に行くと、昨日の少年が近づいてきて、「忘れ物だよ」とトランプを差し出した。些細なことだが、アジアで未だこのような正直さに出会ったことはなかった。
帰国日、最後に広場に行ってみた。顔見知りの少年を見つけ、これから帰るからと告げる。何かを言おうと思ったが、適当な言葉が浮かばない。「ダンニャワード(さようなら)」と言って歩き出したが、写真を撮っておこうと思いついた。ついでに周りの連中も記念に写しておこう。「写真を撮るよー!」とあたりに声を掛けると、20人くらいが集まった。笑顔の彼らをファインダー越しに覗いていると涙が出そうになった。
タクシーを拾い、空港に向かう。しばらくすると今度はパンクした。車外に出ると、来た時と同じような満月だった。  

元(ハジメ)管理人の感想文と皆様への伝達事項

 何度も主張してますが、過去(平成10年代)の海外旅行記です。今が二月あっても年末のお話を読まれると多少驚く人も居られるかもしれませんね。画像データは得られない状態ですので発表が行えません。周知のように平成20年(2008年)にネパールは王政が廃止されました。過去と現在ではネパールは大きく違うと考えた方がよろしいかもしれません。実は、2010年以前にこの点についてネパールに詳しい人物と話したのですが、「日本人が決めることではなくて彼等が決める事。」だと返答されたのが印象深かったです。実際の所、内政干渉は行えません。強調しておきますが、平成10年代は王政であったネパールは現在は連邦民主共和制になってます。中国寄りの政府が出来たこともあってインドとの緊張は不可避なのでしょうか? ネパールはこのままだと内乱が発生しかねません。その点でもこの海外旅行記は貴重かもしれませんね。
 チキンチョウメンとも言われるチキンカレーの麺料理は日本国内でも幾つものネパール料理店で販売されてますから有名です。おいしいので自作されてもよろしいかもしれませんね。個人的な感想なんですがネパール料理店はバターを使用したカレーにも思えます。店にもよるし食べた人によって感想は違ってくるでしょうが少々重たいカレーでした。植物性油を多様するのはパキスタンでしたね。バランスが取れているのはインドでした。スリランカのカレーは意外と甘めだったと思います。カレーの特徴に限っては個人的な感想なので賛同は得られにくいとは思います。日本のカレーは化学調味料が多いかも?
 本当に海外ではノンビリしてるけども心の暖かさが残っているようにも思えます。昨今の日本の現状は全てでは無いにしても大企業が大赤字であったり非常識で短気で錯乱してるがゆえに納得がいかない犯罪者が横行する社会になってきています。心が冷え切った狡猾な人物が多くなってきているのが当たり前になった社会です。言い換えると、精○異○者が優遇されているのでしょうか?
 台湾人夫婦が日本人に優しく接してくれた点も感謝せずにはいられません。実際の所、ドリアン長野は日本人女性と結婚して娘さんがいます。
 過去にフザケタ内容であるがゆえに突っ込み所満載の情けない海外旅行記と違って今回は心が温まる海外旅行記にも思えて仕方がありません。違った意味でずるく感じますね。
 但し、海外に行くと日本とは環境が違ってくる点は理解しておきましょう。タクシー一つとっても安心は行えないようです。問題が発生して遅延が発生する事が日本よりも高い確率のようです。 皆様、次回のドリアン長野の海外旅行記をよろしくお願いします。
以上、管理人元(ハジメ)でした。
 

 回顧を兼ねた書評
 僕の初海外旅行は26歳の時のインドだった。
 当時往復チケットは年末料金だったので30万した(泣)。
 行く前は椎名誠の「わしもインドで考えた」を熟読。
 インドでは尻の毛まで抜かれるほどぼったくられ、下痢と発熱で散々だったけど、
 それからはリーマンパッカーとして主にアジアをふらふら。
 アフリカは遠すぎて行けなかった。新婚旅行もバックパックでバンコクと香港へ。
 香港では雑居房のチョンキンマンションで二泊し、妻はぐったりしていた。
 バンコクでは安宿と高級ホテルと泊まり歩き、マリオットのプールで
 溺死しそうになったのは今ではいい思い出だ(嘘)。
 旅も好きだが、旅行記も好きだ。
 この本は主にアフリカ旅行のエッセイだが、面白い。
 何よりも文章がうまい。
 奥さんとのなりそめを綴った「追いかけてバルセロナ」なんか疾走感があり、
 一気に読め、感動的でさえある。
 朝の通勤の地下鉄で読んでたけど、日本にいながら気持ちはバックパッカー。
 旅の本もいいけど、また出かけたいなあ。