#49 アジア・コーヒ(中島らもへの誄) (リターンズ)

#49 アジア・コーヒ(中島らもへの誄) (リターンズ)
2013-07-01 | Weblog
NO49 アジア・コーヒ(中島らもへの誄)at 2004 08/06 20:43 編集

中島らもが死んだ。アルコール中毒による肝硬変でもなく、ドラッグのオーバードースでもなく、鬱病による自殺でもなく、脳挫傷で死んだ。その何週間か前には町田康との対談及びライブがアメリカ村で行われた。はからずともそれが最後のライブとなってしまった。平日だということで私は行っていない。今さら言っても詮無いことだが、悔やんでも悔やみきれぬ。
中島の死を知った夜、彼の最新文庫「とらちゃん的日常」を買った。彼の死を悼もうとしたわけではなく、たまたま書店で見つけた。
猫が無性に飼いたくなった中島は黒門市場のペットショップで、とらちゃんを三千円で買った、とある。とらちゃんは白黒のトラ猫である。私も去年、黒門市場の同じペットショップで白黒のトラ猫を買った。子猫が三匹ケージの中にいて、白猫が五千円、トラ猫が一万円だった。私がかわいいなあ、と眺めていると隣にいた友人が銀行からお金をおろして買ってくれたのだ。
おれはとらちゃんを撫でてやったり抱いてやったりするが、あんまりな猫可愛がりはしない。なぜなら猫というのは孤高で神聖な生き物だと思うからだ。おれは猫を飼うに値しない人間だ。来し方の悪業を考えるとそう思う。猫を飼うことでおれは一種のみそぎをしているのではないか。おれは一度自分の悪業をおさらいしてみたことがある。何と、殺人とレイプ以外はすべてやっていた。盗み、傷害、カツアゲ、麻薬、詐欺 etc.。これら降り積もった黒い雪を、猫の高貴さが洗い清めてくれるような、そんな気がするのだ。 (「とらちゃん的日常」より)
文庫本に写真が載っているが、メス猫であることも含めてとらちゃんはうちの猫とそっくりだ。
2004年5月30日の日付けの文庫本あと書きで、とらちゃんは今も元気だ、と中島は書いている。その二か月後に彼は亡くなった。とらちゃんは今でも帰らぬ主人を待っているのだろうか。いや、猫のことだから主人のことなど疾うに忘れてしまっているに違いない。中島はそれを良しとするだろう。遺灰は散灰してくれというのが故人の遺言だそうだ。
中島らもは万人の認めるところだが、天才的な作家だった。大阪出身でアメリカで活躍しているコメディアンの大槻タマヨが「天才というのは横山やすしさんと中島らもさん」と言っていたが、まさに万人に分かりやすいという意味での天才だった。天才という言い方が凡庸に過ぎるというのであれば、作家らしい作家であったというべきか。
長篇ももちろん素晴らしいのだが、むしろ私は彼のエッセイや短編に心惹かれてきた。例えば「エキゾティカ」というアジアを舞台にした短編小説集。その中に「ペットとイット」というレディ・ボーイとムエタイ・ボクサーを主人公にした一編がある。コミカルだが嫌みがない。清流のような爽やかさがある。音楽でいうと、モリッシーのようだ。ストーリーは他愛もないといえば、恐らくそうだ。しかし、私は20ページほどのこの短編を読み返すたびに思う。これが作家というものなんだと。
自宅の近くの玉造に、かつての中島らも事務所があった。鬱病の中島はここのビルから飛び下り自殺をしようとして、間一髪わかぎえふに助けられた。前を通るたびにそのことを思い出した。中島の死の当日、わかぎは香港にいたそうだ。今回ばかりは助けることができなかった。死を知らされたわかぎの心中を想うと心が痛む。
その事務所の交差点を南にくだった日之出通り商店街を抜けると、中島のエッセイにも書かれている「アジア・コーヒー」があった。この喫茶店はテレビや雑誌でも取り上げられて有名になったのだが、最初に紹介したのは中島ではなかったかと思う。
「アジア・コーヒー」は喫茶店というよりは、東南アジアにある路傍の茶店という感じだった。店は息子と母親がやっているのだが、あばらの浮き出た不良息子のおっちゃんは、「朝はようから夜おそうまで、ず~っと仕事や。わし、体もたへんで」といつもこぼしていたが、おっちゃんは日がな煙草を吸ってテレビを観ているだけだった。おっちゃんは店の土間に布団を敷いて寝泊まりしていた。
茶店なのに売り物は日本中でここだけしかないという、ネーポンという甘ったるい柑橘系のジュースだけ。たぶん、ネーブルとポン柑からのネーミングだろう。友人が記念に持って帰りたいと言うと、おっちゃんは「神戸にある製造元が震災でつぶれてもうてな。在庫がもうないねん。持ち帰りは駄目や」。でも帰り際に、おっちゃんのお母さんが小声で「これ、持って帰り」とこっそりネーポンを渡してくれた。メニューにはコーヒーやぜんざいやインドカレーがあったが、「コーヒーは?」「ない」「ぜんざいは?」「今、やってないねん」「何もないねんな。そしたら、このインドカレーは?」「インドカレーは予約制やねん。あさって来て。仕込みしとくさかい」とおっちゃん。われわれは期待してその日を待った。そして出てきたのは柄のついた家庭用の小鍋。嫌な予感がした。食べてみるとそれはまぎれもなく、にんじんやじゃがいものごろごろ入ったハウスバーモントカレーだった。
その「アジア・コーヒー」も今はない。その近くにも中島と親交のあったプロレスラーのミスター・ヒトがやっていたお好み焼き屋があったが、いつの間にかなくなっていた(ミスター・ヒトは熊と闘ったという伝説のプロレスラーだ)。
もう十何年も前のこと。扇町であった中島らものバンドのライブ。ボ~ッとしている中島に、「中島~、生きてるか~?」と野次。もうこの野次を聞くこともない。永遠に。

 元(ハジメ)管理人の感想文と皆様への伝達事項
いきなりですが、平成十年代の出来事だとお考えください。今回は海外旅行記ではありません。 平成16年7月26日に中島らも氏は死去されました。たまたま、7月に発表が行える事になりました。又、この一件は詳細は明かしませんがドリアン長野は平成十年代と違って平成20年代には別の町で生活してます。父亡き後娘の中島さなえ先生が作家をされてます。アジアコーヒは外観を見たら驚きすぎて簡単に入店は難しいお店でしたが大阪ミステリーゾーンで紹介されてからファンが増えて店に何枚ものお店のファンの張り紙が多く張られてました。あのアジアコーヒは並ではありませんでした。又、過去に一般的であったからかコーヒーではなくて公費のようにコーヒでした。
中島らもは個人的には明るい悩み相談室が印象深かったですね。何かこう驚く内容が執筆されてる一方で質問者に対して正論の返答もございました。今となっては検索エンジンで大概の事は判明しますね。
以上、管理人元(ハジメ)でした。
オマケ
以下は、中島らもが愛したペットショップの写真です。平成25年のゴールデンウィークに撮影してきました。過去と違って改装されたそうです。

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 回顧を兼ねた書評
 僕の初海外旅行は26歳の時のインドだった。
 当時往復チケットは年末料金だったので30万した(泣)。
 行く前は椎名誠の「わしもインドで考えた」を熟読。
 インドでは尻の毛まで抜かれるほどぼったくられ、下痢と発熱で散々だったけど、
 それからはリーマンパッカーとして主にアジアをふらふら。
 アフリカは遠すぎて行けなかった。新婚旅行もバックパックでバンコクと香港へ。
 香港では雑居房のチョンキンマンションで二泊し、妻はぐったりしていた。
 バンコクでは安宿と高級ホテルと泊まり歩き、マリオットのプールで
 溺死しそうになったのは今ではいい思い出だ(嘘)。
 旅も好きだが、旅行記も好きだ。
 この本は主にアフリカ旅行のエッセイだが、面白い。
 何よりも文章がうまい。
 奥さんとのなりそめを綴った「追いかけてバルセロナ」なんか疾走感があり、
 一気に読め、感動的でさえある。
 朝の通勤の地下鉄で読んでたけど、日本にいながら気持ちはバックパッカー。
 旅の本もいいけど、また出かけたいなあ。