フィリピン旅行記

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紹介した動画はドリアン長野並びに私(マーキュリーマーク)が撮影したものではなく、参考の為の転載です。







#17 マニラのスラム (フィリピン旅行記 リターンズ)

夜の9時前にニノイ・アキノ空港に到着。ロビーに出ると熱気、じゃないなこれは、殺気を感じる。なんだか誰かに狙われているような気がして、少しびびる。ホテルを予約して、米軍用のジープを乗り合いバスに改造したジプニーに乗り込んだ。窓から通りを眺めていると、浜 なつ子の「アジア的生活」(講談社文庫)の文章を思い出してきた。


「スラムは特別な地区にあるのではない。メトロ・マニラ(マニラ首都圏)のいたるところにある。例えば、あなたがニノイ・アキノ国際空港を降りてタクシーに乗り、マカティの5ツ星ホテルに泊まり(そこまで気張らなくても安ホテルでも同じなのだが)、日中は車で移動して夜は繁華街で過ごすとなると、「タイやシンガポールほどではないが、フィリピンもずいぶんと経済発展しているんだなあ」と思うだろう。ところが、一歩、メインストリートをはずれて体重を右足でも左足でもいいから、どっちかに傾けて薄暗い路地を折れてみるがいい。
 そこには、ああっ、と驚く光景が広がっている。」 
 
 とそれから浜氏はスラムの様子を描写し、
「しかし、わたしにとってスラムは混沌という名の・楽園″であり、生命力溢れる根元的な場所である。
  (略) ある意味で、最も俗なるところが聖に通じ、最も醜いものが清らかなものに近く、最も単純なものが真実に迫るという逆説を痛感できる、哲学的な場所でもある。」
 
 と続けている。私はこの文章を読むたびに、うひゃひゃと体が弾むような感覚になるのだ。私はスラムが大好きだ。電車に乗っていて、線路沿いにあるスラムを見つけると途中の駅で降りてしまうくらいだ。そんなに好きなら一生スラムに住みついたらどうだ、と言われると困るけどな。
 マニラには観光名所らしき場所はあまりないが、私にはどうしても見ておきたい所があった。東南アジア最大のスラムといわれるスモーキー・マウンテンだ。夢の島のようなゴミの集積所にバラックを建て、人が住み始めた。ゴミが自然醗酵し、煙がたなびいているのでスモーキー・マウンテンと呼ばれるようになった。スモーキー・マウンテンのあるトンド地区には無用な立ち入りは絶対に厳禁、とガイドブックには書いてある。それでもどお~しても行ってみたい。私は覚悟を決めた。海外旅行保険に加入してないのが残念だ。アバト・サントス駅でタクシーを止め、ドライバーに聞いてみる。 「あんたは悪人か、それとも善人か?」 (マニラのタクシー・ドライバーはボる奴が多いからな) 「なぜ、そんなことを聞く? もちろん俺はグッドマンだ」 交渉して、スモーキー・マウンテンをぐるっとひと回り、300ペソで行ってくれることになった。ドライバーのソシモは気のいい人で、運転中もずっとしゃべりっぱなしだ。 「人生で大切なのはお金よりも友だち、神様、家族だと俺は思うね」 「香港に研修で行ったことがあるよ。外国に行ったのはそれっきりだ」 「トンドなんかになぜ行きたいんだ? あんた、ジャーナリストか? トンドで警官がナイフで刺されたことがあるし、タクシーだって石を投げつけられたこともあるんだぜ」等と話を聞いているうちに、車はいつしか迷路のような細い路地に入り込んだ。一見してスラムと知れる、その住民たちが車を取り囲むようにしてじろじろとこちらをねめるように歩いている。ソシモの言葉を思い出して、こちらとしては気が気ではない。やがてマニラ湾沿いの道路に出た。う~ん、と思わず私は目を見張った。なにしろトタン屋根とありあわせの木造で建てられたバラックが何キロにも渡って延々と続いているのだ。それは今まで訪れたアジアのどの国でも見たことがなかった、圧倒的な光景だった。電気は引いているが、水道はないとソシモは言う。
 スモーキー・マウンテンには以前、人が住んでいたが現在は政府によって強制撤去させられて家はない。気が遠くなるほどの広大なただのゴミの山だ。少し行くと、今にも崩れ落ちそうな五階建てくらいのアパートが密集していたので、その前の広場に車を止めてもらう。広場にいる大勢の大人たちや子供たちが何事かとこちらを注視してきた。
 ソシモに「外に出ても大丈夫か?」と聞く。 「ああ、大丈夫だ」 「ここで待っていてくれ」 あたりを窺うようにしてゆっくりと車から出て、一番近くにあったアパートの階段をのぼる。そこで私は自分の目を疑ったね。各部屋のドアはなぜか全てなくて、中がまる見え。室内には所狭しと何人もの人間が住んでいるのだが、住んでいるのは人間だけではなかった。猫や犬に数羽の鶏までもが同居しているのだ。一軒家ならともかく、アパートの一室で人が家畜と暮らしている光景は異様だ。それは、まるで家畜小屋に住人が住まわさせてもらってますって感じなのだ。もしかして、あれはペットなのか? いや、そうではあるまい。スラムの住人にそんな余裕があるはずがない。現金収入を得るため、もしくは自給自足の食料として飼って、いや、同居しているのだろう。上の階まで行きたかったが、住人の眼光が鋭くなり危険を感じたので車まで戻る。
 「一緒にアパートの上まで行ってくれないか?」とソシモに頼むと、「駄目だ。危険だよ」と言う。あとから考えてみると、危険なのは我々だけでなく、もし車を残しておけばその車だってどうなっていたか分からない。仕方なくトンドを離れ、リーサル公園で降ろしてもらった。歩いて駅まで行こうとしたら、一人のフィリピーノに時間を聞かれた。そのままついてきて、歩きながら自己紹介を始めた。年は29歳。父は日本人、母はフィリピン人。何年か前に離婚し、父は香港にいるが母は行方不明。彼には子供が二人いて、ミルクを欲しがっていると何度も言う。ふ~ん、なるほどね。案の定、「セブン・イレブン」で粉ミルクの缶を二つ買わされた。自分のためにお金をくれ、というのならともかく、小さな子供がおなかを空かしているという言葉に断ることができなかった。願わくはだな、あとでその粉ミルクを換金して、お人好しの日本人はちょろいもんだと舌を出さんように願っているぞ。
 その男は粉ミルクを受け取り、ホテルの所在地を尋ねるとお礼のつもりなのか「案内するよ」と歩き出した。おい、ちょっと待ってくれい。わしはLRT(高架鉄道)に乗って帰るからいいんだ。と言ってもそいつは先頭に立ってどんどん歩いて行く。待てっちゅうねん、お願いだ~、頼むから待ってくれ~。ここからホテルのあるエドゥーサ駅まで6キロはあるぞ。 「心配しなくても大丈夫だよ」 いや、だからそういう問題じゃなくてえ。男は黙々と歩く。薄暗い夜道をひたすら歩く。月がきれいだった。一時間歩いてホテルに着く。えっ、本当に着いたのか? 初めは着いたのが信じられんほどだった。リキというその男は妻子のためにお金が欲しいと言う。 「いくら欲しいんだ?」 「200ペソ」 ありがとう、リキ。案内してくれてよっ!私は彼に50ペソ渡した。リキは少し不服そうだが礼を言って帰っていった。また一時間かけて。
 それから私はホテルでイタリア料理を食べた。500ペソほどだった。近くにカジノがあるというので行ってみたが、カラーのないシャツを着用している人は入場できません、と断られた。帰り道でぼろぼろの服を着た6歳くらいの女の子が右手を突き出してきた。小銭を1ペソしか持ってなかったのでそれを渡すと、女の子は無言で首を振った。でも、どうすることもできんのでそのまま帰った。私は人権主義者じゃないけど、つくづく人間は不平等だとその夜は思った。

管理人マーキュリーマークの感想文と皆様への伝達事項

 フィリピン旅行記のリターンズです。
 本当に海外旅行記らしい海外旅行記です。やはり、相手の気持ちが読めないから仕事にありつけない労働者のお話がいたり小銭が欲しい女の子がいたりもしましたね。 両者共にほとんど日本では詐欺の扱いになるでしょうね。 日本でも、1990年代から平成10年代にかけて署名の後に寄付金を求めてくる人がいました。 平成20年代になって減ったようには感じます。日本国内であっても、ちゃんとした説明も無しに金銭を求める人物がいたので閉口したことがございました。そちらの責任で対応してもらいたいです。
 しかし、時間を尋ねるのを踏み台にして金を求めるというのは、悪い詐欺師でしたね。 
 スモーキーマウンテンは、平成20年には撤去されていたそうですが、過去とは状況が大きく異なり存在はするそうです。実質的に移転し代替の町がパヤタス・ダンプサイトことスモーキーバレーとして存在してるそうです。詳しくは各自でお調べください。
 実際に赴くのと想像では違う部分があったと考えないといけないかもしれません。
 メーデー等が存在しているから労働者の立場は守られています。
 私が行ってきた、ブリティッシュコロンビア州では表通りは万人向けでしたが、裏通りになると「関係者以外立ち入り禁止。」という雰囲気で恐怖でした。 
 私は海外旅行保険に加入してから旅行に行きました。皆様にも海外旅行保険加入を推奨します。一応は保険の世話になること無く過ごせましたが被ってた野球帽を盗まれそうになった事があり争いになりかけた事がございました。有料でしたが、その野球帽に個人を特定する刺繍を防犯対策でしておいて良かったです。質問をしてきた人が私の野球帽に刺繍をしてるのを見て諦めたのが、その理由です。万が一の時に無関係な人が私の野球帽を保有してると「なぜそれを持ってるか?」は問われますよね?不条理な人が悪い。
 依頼してないにも関わらず余計な事をした人はいました。
 前者は、私がブリティッシュコロンビア州の街並みを撮影してたら私に対し余計な発言をしながらショッピングカートを町中で動かしてた人がいてそれを見てた人が走ってきて猛抗議した後で小銭を要求してきたが無視をして立ち去った事を連想します。「ホテルが近い場所であったから助かった。」といった側面があるのかもしれません。
 後者は、フェイスブックを通じて毎日、どうでもよい発言を私にしてきてとうとう安全に関わるような質問をしてきたからダメ出しをしてブロックした日本人もいました。関われない人はいます。 強要とはした方ではなくてされた方が判断するものです。
 本当はこういった事を伝えてはいけないかもしれないが奇抜な状況を見たいという気持ちは否定はしないが、どこか上から目線が好きな人もいるようです。
 私は、長距離歩行と時差ボケで疲れてたから冷静に過ごせるように何とか最善を尽くしてました。
 フィリピンは大きな国内問題を抱えています。経済、国防、治安、環境対策と問題がゴミと同じように山積してるようです。
 実は、バンクーバーに行った時にも教会の中で背広ではなく一般的な衣服を着用した上で3時間プログラムに参加してたフィリピン人男性の教会員がいました。彼と私はそのワードに初めて行ったという共通点がございました。
 教会の中でリーダーシップについて語る時があり、カナダ人の白人が「海外の首脳についてどう考えるんだ?」と発言してたから私は「ENEMY?(許しがたい敵?)」と発言したらそのカナダ人が爆笑した後で我慢してたフィリピン人の教会員が爆笑し全体が爆笑した前例がございました。日本人でも真正保守であれば色々と理解し賛同してもらえると思います。
 一度でも海外に行くか否かは大違いで日本との比較が簡単に行えるようになりますがフィリピンの場合は日本とは状況が大きく異なってるようです。


 

 回顧を兼ねた書評
 僕の初海外旅行は26歳の時のインドだった。
 当時往復チケットは年末料金だったので30万した(泣)。
 行く前は椎名誠の「わしもインドで考えた」を熟読。
 インドでは尻の毛まで抜かれるほどぼったくられ、下痢と発熱で散々だったけど、
 それからはリーマンパッカーとして主にアジアをふらふら。
 アフリカは遠すぎて行けなかった。新婚旅行もバックパックでバンコクと香港へ。
 香港では雑居房のチョンキンマンションで二泊し、妻はぐったりしていた。
 バンコクでは安宿と高級ホテルと泊まり歩き、マリオットのプールで
 溺死しそうになったのは今ではいい思い出だ(嘘)。
 旅も好きだが、旅行記も好きだ。
 この本は主にアフリカ旅行のエッセイだが、面白い。
 何よりも文章がうまい。
 奥さんとのなりそめを綴った「追いかけてバルセロナ」なんか疾走感があり、
 一気に読め、感動的でさえある。
 朝の通勤の地下鉄で読んでたけど、日本にいながら気持ちはバックパッカー。
 旅の本もいいけど、また出かけたいなあ。