台湾旅行記

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紹介した動画はドリアン長野並びに私(マーキュリーマーク)が撮影したものではなく、参考の為の転載です。




#18 シャオエン (台湾旅行記 リターンズ)

 1997年5月、日本の首相官邸に当たる総統府の前を歩いていた。日曜日の昼下がり、空は透き通るような快晴だった。赤レンガの荘重な建物の前には警察官と憲兵(機動隊員)が集まって、何だか物々しい雰囲気だ。
 「ん? 何だ? 何だ?」と足を止めて眺めていると、警察官に職務質問されそうになったのであわてて立ち去る。官庁街であるただっ広い道路の交差点にも市民が集まり始めた。その中にはテレビ局の中継車がスタンバっている。向こうの道路からはデモ隊が何かをシュプレヒコールしながら近づいてきた。一体、何が?  中華人民共和国でも攻めてきたのか?前年には台湾史上初の民間による直接選挙で李登輝が選出された。台湾独立派を恐れる中華人民共和国は大規模の軍事演習を行なったり、台湾海峡にミサイルをぶち込んだりと威嚇を続けていたのだ。
 「何があったんですか?」 近くにいたテレビ局のスタッフらしき人に聞いてみる。
 「テレビ・スターが殺されたんだ」 彼は詳細を説明する英語力がなかったのか、それだけ言うと黙ってしまった。俳優が殺されたぐらいでこんな騒ぎにはならないだろう。警官隊と機動隊が見守る中、デモ隊とそれに呼応した市民が気炎を上げていた。
 その夜は「華西街観光夜市」に行った。長い商店街は地元の人や観光客でごった返し、店の人たち、特に包丁片手にヘビやスッポンの生き血を売るおじさんの口上で賑わっていた。中にはヘビの頭を噛みちぎり、尻尾をくわえて振り回すという猟奇的おじさんもいた。不思議なのは生き血や漢方薬を売る店にはテレビが置いてあって、そのどれもが日本のプロレスを映していたことだ。やっぱり、精力がつくということをプロレスに託して表現したかったんだろうか。しかし、店先に繋がれていたオランウータンはどういうことだ。
 こんなにもヘビ屋やスッポン屋があるのにはわけがある。裏通りに売春街があるからだ。そこに行ってみた。売春宿は外から覗くことができ、ピンクの灯りの下で女性が立っている。その前の道路には怪し気な男たちが列を作って座っていた。
 
 ホテルに戻り、「あっ、そうか、あれは」と気がついた。三週間前に劇画作家の梶原一騎と歌手、女優のパイピンピンの娘が誘拐され、殺害されたのだ。犯人たちはその時点でも逃亡中で、さらに凶悪な事件を繰り返していた。後に5万人もの市民が治安改善のための法律改正や政府官僚の辞任を求めてデモを行ない、内閣は総辞職に追い込まれた。そのデモだったのだ。当時は日本のみならず、世界中にそのニュースが連日のように報道されていた。私はその事件の残虐さを知り、誇張ではなく、犯人たちへの激しい怒りと殺された17歳の少女への思いで胸がつぶされそうになっていた。
 少女の小指を切断し、母親へ送りつけるという行為。食事も与えず五日間に渡って暴行を加え続け、最後には遺体を全裸で排水溝に捨てるという行為。肝臓の五か所が破裂。胸部や腹部等に夥しい量の内出血。死因はロープで首を絞められたための窒息死。
 少女が味わった地獄のような恐怖と苦痛。私には懸命に想像してみることしかできない。そして犯人たちのこと。パイピンピンと犯人たちは経済発展を遂げる以前の貧しい台湾を共に生きた、同世代の人間だった。主犯格三人のうち、二人は警官との銃撃戦中に自殺。あとの一人はなおも逃亡し、南アフリカ大使館武官官邸に立て籠ったが、ついに投降した。パイピンピンはその後、台湾の治安の改善を目指し、ボランティア活動を精力的に行なっている。犯罪のない社会作りを世界にアピールするため、長野オリンピックには聖火リレーに台湾代表として参加した。
 せめて私は自分の命が続く限り、17歳で殺された少女のことを忘れないようにしようと思う。そうすれば彼女は生きる。私たちの記憶の中に彼女は生き続ける。
 
参考文献 「燕よ、空へ」 パイピンピン著 木村光一訳 / ルー出版

 
管理人マーキュリーマークの感想文と皆様への伝達事項
 あれから20年以上経過するのか・・・
 1990年代のお話であっても、平成10年代の台湾旅行記ではありません。端的には、平成9年五月のお話とお考え下さい。恐らくは、ゴールデンウィーク期間中でしょう。
 長い人生では、旅先で大きな犯罪が発生したり事故が発生するのを目の当たりにある時がございます。 私も、全ての詳細は語りませんが、全く無かった訳ではありませんでした。 唯一の例外としてお伝え出来るのは1990年代初頭に目の前の車が分離帯に乗り上げて横転事故をしたのを連想しました。その点だけ伝達が行える位です。
 平成22年12月に兵庫に赴いた時に台湾人観光客数名と軽く英会話をしましたがビビ○ン・スーについて話しながら私鉄に乗ったのを思い出しますね。
台湾人と日本人は良く似ていて一見しただけでは、判別し難いですね。
 今回のお話は1990年代の平成9年のお話ですが、治安の悪化は、2010年代になっても継続している。安全神話は崩壊しています。17歳で殺害されたといえば女子高生が殺害されたと考えても間違いではありません。しかも、虐殺でした。被害者が有名人であるとか金持ちであるとかではなくて、殺人の無い社会作りが必要なのですが、それには政府がしっかりしてもらわないといけない。万人の人命は平等です。
 多くの親御さんは苦労して子育てをしているし労働に励んでいる。それを無効化するような犯罪者達はどの国であっても否定される。 少なくとも、日本・台湾・南アフリカ共和国の国々で注目を浴びた事件であった。
 思いは大きいが、なぜか上手に伝えられません。 やはり、憤りと悲しみが大きいからでしょうね。 彼女には罪が無かったが殺害された。 彼女の母親が治安改善運動をしているのは、必然です。
 人にもよるが、海外旅行に行った時に犯罪が発生してるのを見たかどうかの差異は存在してると思います。
 私の場合は、バンクーバーのロブソン通りの路上で座ってる太った女性がわめいてたのを見た程度です。
 海外旅行に行くか行かないかは各自で熟慮の上でご決断下さい。昨今、悲劇が発生しており個人の力ではどうしようもない問題が発生してます。影響を与える事が行えても責任はとれません。私が行ってきたバンクーバーでも私が行った2015年(平成27年)はともかくですがその翌年の2016年(平成28年)にバンクーバーで英語を学んでた日本人が殺害される悲劇が発生しました。 
 そのことから言える事ですが、海外旅行へ行くにしても過去完了形で連絡をされてもよろしいかもしれません。不要な質問をする人がいます。そういった人は、公共の敵達ないしは質問者が公共の敵かもしれません。愚かな質問は実質的に一般人ばかりか公共の敵にも情報提供してるという概念が欠落していて罪悪感が欠落してる慇懃無礼な悪人はいます。
 現在(平成20年代)は過去と大きく状況が異なってます。タブレットスマホが一般的になってSNSが円滑に行える影響は大きいです。
 率直にお伝えしますが、何等かの愚かな質問をしてきた人がいて断ると逆上し激怒する人は日本には多いです。強要してる自覚が無い悪人はいます。
その対策は必要だと思います。基本的にはあえて伝えないという選択もございますが、万が海外旅行について何等かの質問をされることになったら、以下の例文を特別に伝達します。

「海外は日本国内と違って、治安が悪く安全に関わるのでそういった質問は控えてください。万が一の事があったらあなたは責任を取ってくれますか?」

 それでもしつこくフザケタ質問を繰り返すような人物ですと、関与する必要が無い人ですので手を引く事を推奨します。この決断については、冷たい人だと考えてもらいたくないが、実際に悲劇の前例が存在してるから伝達してますので皆様には賛同し正しく認識してもらえると幸いです。貿易商人によっては「偽計業務妨害をされて辛い。」と思う人もいるかもしれない。海外で生活する時はそれなりに多忙ですし(インターネット)通信のやりすぎで飛行機の時間に乗り遅れたとしても迷惑をかけてきた人(日本人か外国人は問わない)は責任を取らないに違いありません。私は帰りの飛行機には遅れなかったが少々遅い時間に着席したと考えてます。 
 海外の犯罪者対策ばかりか国内のストーカー対策がこれからの海外旅行には求められてます。それは、単純に海外の治安が悪い町に意図的に赴かないという事だけでは収まらないのです。
 皆様、海外旅行の場合、国内旅行とは違う標準が求められると考えていただきたい。


 

 回顧を兼ねた書評
 僕の初海外旅行は26歳の時のインドだった。
 当時往復チケットは年末料金だったので30万した(泣)。
 行く前は椎名誠の「わしもインドで考えた」を熟読。
 インドでは尻の毛まで抜かれるほどぼったくられ、下痢と発熱で散々だったけど、
 それからはリーマンパッカーとして主にアジアをふらふら。
 アフリカは遠すぎて行けなかった。新婚旅行もバックパックでバンコクと香港へ。
 香港では雑居房のチョンキンマンションで二泊し、妻はぐったりしていた。
 バンコクでは安宿と高級ホテルと泊まり歩き、マリオットのプールで
 溺死しそうになったのは今ではいい思い出だ(嘘)。
 旅も好きだが、旅行記も好きだ。
 この本は主にアフリカ旅行のエッセイだが、面白い。
 何よりも文章がうまい。
 奥さんとのなりそめを綴った「追いかけてバルセロナ」なんか疾走感があり、
 一気に読め、感動的でさえある。
 朝の通勤の地下鉄で読んでたけど、日本にいながら気持ちはバックパッカー。
 旅の本もいいけど、また出かけたいなあ。


 管理人マーキュリーマークからの伝言
 上記は、ドリアン長野が令和二年に投稿した内容です。
 令和六年にドリアン長野は親子でケアンズ旅行。