米国・ロサンゼルス並びにメキシコ・ティフアナ旅行記 (ヤフーブログ版)

米国・ロサンゼルス並びにメキシコ・ティフアナ旅行記(ヤフーブログ版

NO41 続々ロサンゼルス編
at 2004 03/04 00:14 編集

目を覚まし、海辺に面した部屋のカーテンを引く。陽はすでに高い。白い波頭の間にサーファーたちが見え隠れする。今日も暑くなりそうだ。ロサンゼルスには四種類の人間しかいない。ハリウッドスターと観光客とメキシカンとホームレスだ。モールに入ってみると何だか気が滅入る。モールってやつは世界中どこでもそうなんだろうが、画一的で面白味に欠ける。オープンシステムになっているファーストフード・レストランは家族連れで一杯だ。誰もがハンバーガーかピザかフライドチキンを頬張っている。なんだかなあ~。ロサンゼルスに滞在して分かったことがある。その壱、食事をハンバーガーとコーラなんかで済ませる人が結構多い。それゆえ、デブはハンパじゃなくデブだ。デブの中のデブ、デビーだ。人間というよりは肉の塊、ミートだ。その弐、タトゥーをしている人が多いが、やつらはそれを見せびらかすために常にノースリーブのTシャツだ。ごくろうさんだ。ためになった。これだけアメリカを学んだら充分だ。今晩荷物をまとめて日本に帰ろう。
「メキシコに行かない?」朝食後、ジョイスが言った。「え”?メキシコに行けるの?」「もちろん、行けるわよ。アメリカからメキシコにはフリーパス。帰るときはIDがいるけど」
メキシコといえばテキーラにサボテンにタコスしか思い浮かばんが、なんだかムーチョなところに違いあるまい。
「行く、行く、連れてって。これからすぐに旅立ちましょう。早く支度して、急いで急いで」「くっ、苦しい~。そんなに揺さぶらないで。てっ、手を離してちょうだい。年寄りを殺すと天国に行けないわよっ!」
というわけで、我々はバスを乗り継ぎ、トラムに乗り、何時間もかけて国境のティフアナに到着した。国境越えするにはらせん状の歩道を歩かなければならないが、そこにはすでに幼子を抱えた母親か何人か物乞いをしていた。目の前の丘にはトタン屋根の粗末な家が斜面にも隙間なく建っている。いきなり劇的に景色が変わった。その参、アメリカとメキシコの国境は世界一残酷な国境だ。「GODを求める人たちがアメリカに行き、GOLDを求める人たちがメキシコに行った。たった一字の違いだが、それが現在の貧富の差となった」という石川 好の本で読んだ言葉を思い出した。もちろん、そんな単純なことではなく、ピルグリム・ファーザーたちも崇高な目的ばかりじゃなかったらしいけど。街を歩くと、その身なりで地元の人間と観光客がはっきりと分かる。前を歩いていたフリルの付いた服を着たアメリカ人少女と、裸足でぼろぼろの服を纏った同じ位の年嵩のメキシコ人少女が偶然にもツーショットになった。「しめた、これを撮ればピュリッツァー賞、間違いなし」とカメラを探しているうちにどこかに行ってしまった。あ”あ”、おれって!
「人生はお金がすべてではないけれど、無いと不便。あったほうが便利だなあ」(相田みつを
みつを、なに当たり前のことをもっともらしく言ってんだあ! おいちゃんはなあ、ホントはこんなこと言いたくなかったんやけど、最後に言わしちくれ、「ロスに来たのは、とんだ時間のロスだったあああぁぁぁぁ~~っ..................................................................................................。」

NO 113 ロサンゼルス編

at 2006 09/21 21:26 編集

のっけから何だが、私はロサンゼルスが嫌いだ。それはなにも私が九時間以上も飛行機に乗ってやっと到着した空港をボ~ッと歩いていたら二人組のイラン人にアムネスティに寄付をしてくれと孤児の写真を見せられ大勢の日本人から寄付をいただいている一人最低100ドルからだと言われ何で寄付するのに最低額があるんだと思いつつもそのくらいならいいかと寄付をして空港を出た時分に100ドルいうたら一万円以上やんけとやっと気づき自分のマヌケさに地団太を踏んだからではない。
ロサンゼルスの空はどこまでも真っ青のブルースカイだ。まるで貧血の病人のように青い。私はそれに向かって「バカヤロー」と叫びたかったね。ウッディ・アレンアカデミー賞受賞式に招待された時もいつものようにニューヨークの「マイケルズ・パブ」でクラリネットを吹いていたそうだ。「僕にはロサンゼルスの空は眩しすぎる」とほざいたそうだが、ウッディ、いや、ウッちゃん、私はあんたの気持ちがよく分かるぞ。ここで一句、「旅人は 悲しからずや 空の青 ロスの青にも 染まず漂ふ」
何言ってんだ、インドやタイやカンボジアの空だって充分青いじゃねーかとぬかすヤローがいるかもしれんが、チッチッチッ、だからトーシローは困るってんだよ。ロスの空はいわば、場末の落魄した娼婦が客をとろうと必死になって厚化粧しているようなもんだ。不健康で退廃的で侘びしくて物悲しいんだよ。なーにがカリホルニアドリーミングだあっ。100ドル返せーっ、ちくしょー!
ダウンタウンを歩いていると聞こえてくるのはスペイン語ばかり。映画館でアメリカ映画を観てもスペイン語の字幕付きだ。夜になると商店は早々と閉めてしまい、歩いているのはホームレスだけ。ハリウッドもビバリーヒルズもロデオドライブもちっとも面白くない。リトル東京で「ヤオハン」の場所を尋ねた日系の老人には、「夜は独りで歩かないほうがいい。巡査は外国人に偏見を持っているからな」と忠告された。ステーキハウスでステーキを注文したら、付け合わせのマッシュポテトが山のように出てきた。これだけでもう満腹だ。ふうふう言いながら何とか食べ終わると、ウエイターが「食後にアイスクリームはどうだい?」と聞いてくる。「冗談言うなよ、マイケル。これ以上食べたらゲロしたステーキがサンタモニカまで飛んでっちまうぜ」と私は肩をすくめる(ふっ、オレもアメリカン・ジョークがうまくなったもんだぜ)。
ああ、ロサンゼルス! めしはまずいし、歩くのにはただっ広いし、面白い所もない。私は台湾系アメリカ人、ナンシーおばさんの経営するモーテル、「City center motel」に宿泊しながら悶々としていた。どこか面白そうな場所はないもんだろうか。うーんとお~.......。あっ、そうだ! そう言えばサウス・セントラルがあった。ニューヨークのサウス・ブロンクスと並び称される、泣く子も黙るその地区は犯罪の温床となっており、殺人事件は日常茶飯事でヘイト・クライムという人種偏見による犯罪も起きていると本で読んだことがある。何だか想像するだけでケツのあたりがムズムズしてくる。しかし、日本人がのこのこ出かけていっても身ぐるみ剥がされて射殺されるのがオチだ。ここはひとつ、奮発してタクシーをチャーターして連れてってもらおう。モーテルのロビーでいつもうだうだとたむろってるメキシコ人に頼めば大丈夫だろう。善は急げ(?)とさっそく彼らに聞いてみる。しか~し、 
「へっ、サウス・セントラルだと? サルがケツから飛び出すぜ」「俺はまだ死にたくねえよ」「あそこは観光地じゃないぜ。ディズニーランドなら連れていってやってもいいけどな」 
けっ! メキシコ野郎はどいつもこいつもチキンばかりだぜ。とっととメキシコに帰りやがれ! (われながら知らないちゅうことはごっつう恐ろしかことですたい。皆さん、生半可な知識は身を滅ぼします、注意しましょう。嗚呼、無知の涙
メトロのブルーラインに乗ればサウス・セントラル地区まで行くことができるのだが、私もそこまで無謀ではない。残念だが、そこに行くのはあきらめた。口惜しや。その時、天啓のように私の脳裏に閃く地名があった。そうだ、「ワッツ」だ。ワッツは黒人暴動が起こった場所として記憶に刻み込まれていた。今度はそこに行きたいと頼んでみると、一人のメキシコ人が行ったことがあると言う。35ドルでタクシーを手配してやると言うのでOKする。何でわざわざ好き好んでそんな危険な場所に行きたがるんだと疑問に思う人もいるだろう。貧しい人々や危険な地域を見学するような非常識な行為はやめようという良識派の意見は百も承知だ。しかし、私の好奇心はどうしてもそういった方面に向けられてしまう。
やって来たタクシー・ドライバーはエルサルバドルからアメリカに来て三年目のフィデルという青年で、英語がほとんど分からない。私のスペイン語は大学の第二外国語で習っただけで、補習を受けてやっと可を頂いたという代物だ。自慢じゃないがしゃべれる構文は「私の父と母はスペイン語が話せます」だけだ(一年生の時にスペイン語を教えてくださった平田先生、その節はご迷惑おかけしました。それから三年の時の補習の大垣先生、以下略)。
我々の意志の疎通は私の極端に少ないスペイン語の語彙(二十単語ほど)と身ぶり手ぶりと勘によって行われた。で、そのワッツだけど、総じて美しい住宅街が続く何の変哲も無い街だった。「Dr・Martin Luther King Shopping Center」というモールを見つけたので、タクシーを降りる。ぶらぶらと歩いている黒人は誰もが穏やかに見える。近くにいた黒人警官に聞いてみると、「暴動のあった場所はこの辺りだが、貧しい黒人の居住区は知らない」のだそうだ。そういえば、暴動が起きたのは1950年か60年代のことだったぞ。あー、何やってんだ、俺は。フィデル、とっとと帰るぞ。お前もアメリカに三年も住んでんのなら、英語くらい勉強しろよな(やつあたりすんなよ)。
夕食はチャイナタウンに食べに行った。今日は大晦日なので閉まっている店がほとんどだ。客のいない小さな食堂で飯を食べていると、警察官が二人食事をしにやって来た。 
「......................................。」
晦日の夕暮れにうら寂しい食堂で警察官と無言でとる食事ほど物悲しいものはないと私は断言する。これで古いラジオから八代亜紀が聞こえてきたら完璧だ。いや、アメリカだからウィリー・ネルソンかトム・ウエイツあたりか。リトル東京では「紅白歌合戦」を衛星放送で観ながら故郷に想いを馳せながら涙する人がいるんだろうか。
ユニオン・ステーションで21時発サンディエゴ行きのアムトラックに乗る。ロンドンで知り合ったジョイスに会うためだ。彼女は元看護婦のおばあさんで、今は離婚してロサンゼルスとサンディエゴの中間ほどにあるオーシャンサイドに独りで住んでいる。降りる駅が近づくと、車掌がやって来て教えてくれた。乗客の一人一人にそうしているみたい。駅にはジョイスが迎えに来てくれていた。彼女のアパートは駅から歩いて五分。目の前は海岸だ。歩きながらジョイスが言う、「ここで『トップ・ガン』の撮影があったのよ」。おお、さすがハリウッドが近いだけはあるじゃないか。
その夜は二人でテレビのNYのカウントダウンの中継を観る。 
「ファイブ、フォー、スリー、ツー、ワン! あけましておめでとうございます」 
「ありがとう、今年のニューイヤーは寂しくなかったわ」 
「今度は是非日本に来てください」
袖振り合うのも他生の縁というジャパンのことわざを思い出す。それから二人は他愛ないことを女子高生のように明け方までくっちゃべり、疲れ果てていつしか倒れ込むように寝入ってしまうのだった。
目を覚まし、海辺に面した部屋のカーテンを引く。陽はすでに高い。白い波頭の間にサーファーたちが見え隠れする。今日も暑くなりそうだ。
ロサンゼルスには四種類の人間しかいない。ハリウッドスターと観光客とメキシカンとホームレスだ。
ロサンゼルスに滞在して分かったこと。その壱、食事をハンバーガーとコーラなんかで済ませる人が結構多い。それゆえ、デブはハンパじゃなくデブだ。デブの中のデブ、デビーだ。人間というよりは肉の塊、ミートだ。その弐、タトゥーをしている人が多いが、やつらはそれを見せびらかすために常にノースリーブのTシャツだ。ごくろうさんだ。ためになった。これだけアメリカを学んだら充分だ。今晩荷物をまとめて日本に帰ろう。
「メキシコに行ってみましょうか?」ブランチの後、ジョイスが言った。
「え”?メキシコに行けるの?」
「もちろん、行けるわよ。アメリカからメキシコにはフリーパス。帰るときはIDがいるけど」
メキシコといえばテキーラにサボテンにタコスしか思い浮かばんが、なんだかムーチョなところに違いあるまい。
「行く、行きましょう、連れてってください。これからすぐに旅立ちましょう。早く支度して、急いで急いで」
「お、落ちついて。そ、そんなに揺さぶらないで!」
というわけで、我々はバスを乗り継ぎ、トラムに乗り、何時間もかけて国境のティフアナに到着した。国境越えするにはらせん状の歩道を歩かなければならないが、そこにはすでに幼子を抱えた母親が何人か物乞いをしていた。目の前の丘にはトタン屋根の粗末な家が斜面にも隙間なく建っている。いきなり劇的に景色が変わった。
その参、アメリカとメキシコの国境は世界一残酷な国境だ。
「GODを求める人たちがアメリカに行き、GOLDを求める人たちがメキシコに行った。たった一字の違いでしかないが、それが現在の貧富の差となった」という石川好の本で読んだ言葉を思い出した。もちろんそんな単純なことではなく、ピルグリム・ファーザーたちも崇高な目的ばかりじゃなかったらしいけど。街を歩くと、その身なりで地元の人間と観光客がはっきりと分かる。前を歩いていたフリルの付いた服を着たアメリカ人少女と、裸足でぼろぼろの服を纏った同じ位の年嵩のメキシコ人少女が偶然にもツーショットになった。
「しめた、これを撮ればピュリッツァー賞なんかもらえるかも」とカメラを探しているうちに彼女たちはどこかに行ってしまった。あ”あ”、おれって!
健康的で眩しすぎる空と海。反面、移民や不法労働者を抱え、犯罪が多発する現代のバビロン。ああ、ロサンゼルス!
「ロスに来たのは、とんだ時間のロスだったあああぁぁぁぁ~
~っ..................................................................................................。」(ごめんなさい)


皆様への伝達事項
ドリアン長野が2010年以前に作成し発表した海外旅行記ですので現在とは状況が異なる部分が多々あるかと思います。影響を与える事が出来ても責任は取れませんので参考にしてもらう分には構いませんが模倣は不可能になってるやもしれません。

皆さん、4点の連絡がございます。
第一に、誠に申し訳ないが平成19年の夏に風邪で体調不良であった私は幾つか(#37、#38、#39と#40)のバックアップが行えませんでした。ドリアン長野は平成16年3月に、NO41で発表した後、およそ二年半を経過した平成18年9月にNO113で再編集したロサンゼルス旅行記を発表しました。従って、NO41とNO113の両者に限っては転載が行えたので今回、発表が行えてます。

第二は、米政府はメキシコとの国境の間に壁を作る決断を下しました。過去(2016年以前)のように円滑に米国とメキシコを陸路で行き来することは不可能になる見込みです。トランプ大統領の決断の影響は小さくない。

BBCニュース - トランプ米大統領、メキシコ国境の壁建設を命令 移民取り締まりも強化 https://t.co/5oYZGDgLiu</a> — ドリアン長野 (@duriannagano) 2017年2月6日

メキシコの「国境の壁」 ついに巨大な試作品ができあがる https://t.co/wuW5JWzb49</a>
— ドリアン長野 (@duriannagano) 2018年1月28日 ">

第三ですが、バハ・カリフォルニア州ティファナ市は複数の犯罪組織の対立によるものと見られる多くの殺人事件が発生してるばかりか凶悪犯罪も増加し、情勢は流動的で2017年(平成29年)にはバハ・カリフォルニア州内どころかメキシコ全土で最も多くの殺人件数を記録しましたので海外旅行の旅先としての推奨は行えませんので不要不急の渡航はやめてください。平成十年代はまだ平和であったかもしれませんが2010年以降は治安が悪化してる模様です、そうした影響からか2015年(平成27年)8月31日迄はアメリカ(USA)からメキシコへの徒歩での入国には、鉄枠の付いた回転ドアによる逆行不能の越境のみで入国審査はなかったそうですが2015年(平成27年)9月からは回転ドアをくぐった先に検問所が設けられ、入国審査が実施されるようになったそうです。 もしも、本当に米国からメキシコのティフアナに赴かれるなら各自で調べた上で赴いてください。全く逆にメキシコから米国へ赴く時も厳しい入国審査は存在するそうです。

第四ですが、前述した内容(旅行記)を理解された人には半ば無意味な伝達かもしれませんが、航空会社のアエロメヒコによって成田空港からバハ・カリフォルニア・ノルテ州(*1)のティフアナへの直行便は2006年(平成18年)には就航してたそうですがドリアン長野は一旦、米国のロサンゼルスに訪問してから陸路でティフアナに赴いたので日本国内からメキシコへの直行便は利用しなかったそうです。この旅行記を読まれた方の中には過去に成田空港からティフアナに直行便で赴かれた人はおられるかもしれません。
平成20年代(平成26年頃?)に千葉県の成田空港からティフアナのヘネラル・アベラルド・L・ロドリゲス国際空港ことティフアナ国際空港(メキシコ)を行き来するアエロメヒコによる直行便は廃止されたそうです。

*1 バハ・カリフォルニア州の俗称はバハ・カリフォルニア・ノルテ州だそうです。なぜならば、バハ・カリフォルニア・スル州が存在し北がスペイン語でノルテで南がスペイン語でスルで区分けが目的だからだそうです。



管理人 マーキュリーマーク
 

 回顧を兼ねた書評
 僕の初海外旅行は26歳の時のインドだった。
 当時往復チケットは年末料金だったので30万した(泣)。
 行く前は椎名誠の「わしもインドで考えた」を熟読。
 インドでは尻の毛まで抜かれるほどぼったくられ、下痢と発熱で散々だったけど、
 それからはリーマンパッカーとして主にアジアをふらふら。
 アフリカは遠すぎて行けなかった。新婚旅行もバックパックでバンコクと香港へ。
 香港では雑居房のチョンキンマンションで二泊し、妻はぐったりしていた。
 バンコクでは安宿と高級ホテルと泊まり歩き、マリオットのプールで
 溺死しそうになったのは今ではいい思い出だ(嘘)。
 旅も好きだが、旅行記も好きだ。
 この本は主にアフリカ旅行のエッセイだが、面白い。
 何よりも文章がうまい。
 奥さんとのなりそめを綴った「追いかけてバルセロナ」なんか疾走感があり、
 一気に読め、感動的でさえある。
 朝の通勤の地下鉄で読んでたけど、日本にいながら気持ちはバックパッカー。
 旅の本もいいけど、また出かけたいなあ。