令和二年四月の転載







センバツに出場する東海大すもうって、すもうの学校なのに野球も強いんですね」
「T君、それは、すもうって読むんじゃ、ない…」

地下鉄で50代と思しきリーマン
「アンクルパンツっておじさんが履くパンツだと思ってたわ」
思わずぷーっと吹いたのを誤魔化すためにゲヘンゴホンと咳をしたならば隣に座ってた妙齢の女子が忽然席を立ったのだが嫌違う違います僕は無実…咳をしてもひとり尾崎放哉


押忍

「港ではコロナで大変ですが、くれぐれもお気をつけください」というハガキが知人から来た。
ダイヤモンドプリンセスはとっくに出港したのになあ、世事に疎い人だなあと思っていたら、ふと気づいた。
ち・ま・た…か

はい

香山リカ氏が、総理と百田尚樹氏と有本香氏が会食したことを捉えて「この非常時に三人で会食する意味があるのか」と憤っておられますが、
いや〜すごいイチャモンづけだな、と。総裁就任時の3500円のカツカレーに文句言ってた人を思い出しました。

朝起きて水を飲み、「目覚ましテレビ」をつけて弁当を作るのが日課だ。
テレビから癖があるが懐かしい声とメロディが聞こえる。画面を見るとiPhone11のナイトモードのCM。今まで数えきれないほど聴いたスマパンの「we only come out at night」。
この曲が収録されている「メロンコリーそして終りのない悲しみ」はグラミー賞最優秀アルバム賞にノミネートされ、全米だけでも1000万枚以上が売れた。
まさかスマパンがCMで聴ける時代が来たとは。

みんなで囲むひとり鍋

「男子の一諾」 中学生の時「少年ジャンプ」に「スケ番あらし」が連載され、愛読していた。車田正美のデビュー作で人気があった。 当時ジャンプの最後のページに漫画家の通信欄というか近況報告が載っていて、車田正美がこう書いていた。 「ファンレターを書いてくれ。全部に返事を出す」 私は返事欲しさにハガキをテキトーに書いて送った。半信半疑だったが、何ヶ月か後に本当にハガキが来た。残念ながら紛失してしまったが内容は覚えている。 印刷ではなく、手書きの緑のボールペンで 「ハガキありがとう。できたら感想も書いてほしかったぜよ」 住所も同じ緑の同じ字体で書いてあった。私は感動した。 全国から何千か何万か知らないが、漫画の執筆の間を縫っておそらく腱鞘炎の痛みに耐えながら一枚づつ書いていくのは大変な作業だということは中学生の自分にもわかった。 後年の大ヒット作「リングにかけろ」に男子の一諾という言葉が出てくる。 主人公は右の拳を負傷しており、ボクシングを禁じられているにも拘わらずライバルからの試合の申し込みを受諾する。 顧問の先生が主人公を止めようとすると、女性教師が吉田松陰のエピソードを話し始める。 松陰が宮部鼎蔵たちと東北旅行の約束をする。旅行といっても物見遊山ではなく、阿片戦争に危機感を抱いた松陰の国防施設の視察が目的だった。 しかし藩からの通行手形がなかなか降りない。約束の日に間に合わないのでそのまま旅立ちをしてしまう。 これは脱藩になり、幕末には半ば形骸化していたとはいえ、重罪だ。のちになぜもう少し待たなかったのだ、と問われた松陰は答える。 いま小さなことの約束を守れない人間が将来大きなことを成し遂げられるわけがない、と。 一諾千金という言葉が史記の季布伝にある。 男子がする承諾は、千金にも値するほどの重みがあるという意味から、一度交した約束はどんな場合でも守らなければならないということのたとえだ。

うん、うん

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「幻獣ムベンべを追え」
恥ずかしながら高野秀行の本を今まで読んだことがなかった。 角幡唯介「探検家の憂鬱」でこの本を「比類のない面白さ」と言っていたので読んだ。で、感想は比類のない面白さだった! 二人は元早稲田大学探検部のメンバーである(同世代ではない)。 本書は高野秀行が探検部に在籍していた時のデビュー作である。コンゴ民共和国(1986年当時)のテレ湖に幻の怪獣が棲息するという。その怪獣を発見しに行こう!と高野の発案にしかし、部員には失笑され、探検部OB会でも西木正明や船戸与一にボロクソに貶される。 それでも11人の隊員を集め、スポンサーを募り、入国許可を取り合宿をして現地に乗り込むのだが、なんやかんやでここまでで紙幅を100ページ費やす。ここまででも滅法面白いのだが、本当の面白さはアフリカに到着してからだ。食糧は現地調達。ゴリラ、ワニ、ヘビ、カワウソ。サルは定番のおかずだ。サルの毛を焼き取ると姿といい、大きさといい、人間の赤ちゃんそっくりだそうだ。森の奥で何かの吠え声がすると、その瞬間コンゴ人は荷物を下ろす。
「銃を持った男が先頭に立ち、そのあと槍を持ったメンバーが腰をかがめ密生したヤブの中へ続々と消えていく。その時の素早さ、身のこなし、そして何よりもその顔が印象的だ。全神経を獲物に集中させ、心は無の境地に達し、あるのは闘争本能だけだ。昔から森に生まれ育ち、森に死んできた民族の血を見る思いである。男らしいとはまさにこういうことを言うのだろう」
そして彼らが血しぶきを浴びて肉をぶった切る解体作業を見ながら著者は思うのだ。
「ああ、人を殺して食うまであと一歩だな」と。次の獲物がヒトであったら抵抗なく食えるような気がする。 果たして幻の怪獣ムブンベは?
本書の解説で宮部みゆきが言う。 「今の世の中には、絶対に、こういう本が必要なんです」
痛快なエンターテインメント.ノンフィクションである。

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格闘技としての武道
試合や競技は空手の一部に過ぎない。空手の本質は人間を殺傷することにある。それは空手がスポーツではなく、武道であるからだ。著者は格闘技をやっていた。その経験があるからこその意見だろう。重要な部分だと思うので、長いが引用する。
「今日のプロリアルファイトで空手は充分活躍してるとは言えない。しかし私(作者)は ”強さ” において今もなお空手に何の疑いも持っていない。何度も言うが空手は武道である。壊し合いから最低限、選手を守る為に作られた競技の外に空手本来の恐ろしさがあるのだ。
先ずは裸拳の脅威だ。グローブ着用ならガードを上げていれば大したダメージはない…。
しかし、空手家の鍛えられた拳は恐ろしく硬い。スナップを効かせた裏拳、腰の入った正拳を素手で受ける事は石を受けるが如しである。 素手である事……
それが空手家が能力を発揮する第一条件だ。もちろん路上は基本的に素手である。
今日の格闘界では ”立ち技系は転がしてしまえ'' というのは常識だ。現にボクシングやキック、空手の試合においても組み、もつれ倒れたら仕切り直すルールである。しかし空手は本来、立ち技と言っても武道である。長い歴史の中で組みつき倒されること事を想定しなかっただろうか?本当に備えはないのだろうか?
否!例えば振り下ろす猿臂である。背中に落とす肘は殆どの格闘技試合で認められていない。
しかし、空手家にとっては普通の技である。タックルで背中を晒して入ってくる者を仕留めるのに、これほど適した技もない。
振り下ろす猿臂は空手の技の中でも一、二を争う強力な技である。一発でレンガやブロックも粉砕されてしまう。それに向かって背中を晒して入っていくには相当なリスクを伴うはずだ。しかし、これらはルールに封じられている技の一部に過ぎない。ルールがないという事は本当に恐ろしい。急所を狙い合わない事を前提とした競技の中の技術が時に無意味になってしまう。そして急所を狙う事なら空手に先んじるモノもないのだ。相手を破壊する技、勝つ為の技。時に不快に映るかもしれない。しかし、これが ”武” なのだ。貫手や裸拳を使う為、執拗に鍛えられた空手家の握力は尋常ではない。目突きなどを使わなくても、もみ合いの中、耳や鼻を裂く事も決して難しい事ではないのだ。
特に空手家の手は形を変え、凶器化されて使われる事がある。いずれも急所を破壊する事に優れており、極めれば貫手などで畳を貫く事も可能だという。しかし、それらの技が表の格闘界で使われる事はない。優れた武道家の刀身は鍛え練られる事はあっても、この社会でそれを抜く事は許されないのだ。」

ホーリーランド森恒二

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文章のうまさと疾走感
「孤独な鳥はやさしくうたう」 田中真知
僕の初海外旅行は26歳の時のインドだった。当時往復チケットは年来料金だったので30万した(泣)。行く前は椎名誠の「わしもインドで考えた」を熟読。インドでは尻の毛まで抜かれるほどぼったくられ、下痢と発熱で散々だったけど、それからはリーマンパッカーとして主にアジアをふらふら。アフリカは遠すぎて行けなかった。新婚旅行もバックパックバンコクと香港へ。香港では雑居房のチョンキンマンションで二泊し、妻はぐったりしていた。バンコクでは安宿と高級ホテルと泊まり歩き、マリオットのプールで溺死しそうになったのは今ではいい思い出だ(嘘)。
旅も好きだが、旅行記も好きだ。この本は主にアフリカ旅行のエッセイだが、面白い。何よりも文章がうまい。奥さんとのなりそめを綴った「追いかけてバルセロナ」なんか疾走感があり、一気に読め、感動的でさえある。朝の通勤の地下鉄で読んでたけど、日本にいながら気持ちはバックパッカー。旅の本もいいけど、また出かけたいなあ。

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パンクロック
「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」①
著者は福岡県生まれ。貧困家庭で育つ。高校生時にパンクロックを知り、労働者階級の自分を誇りに思う人がいることに感銘を受け、バンドを組む。試験の答案用紙の裏にアナーキスト大杉栄のミニ論文を書いたところ(セックスピストルズ の「Anarchy in the UK」の影響だろう)、それを読んだ現国の教師に大学に行って本を読み、物を書け、と熱心に勧められる。しかし高校卒業後、バイトをしては渡英することを続ける。もちろんジョン.ライドンの熱烈なファン。
という彼女の経歴を知り、先日59歳になったばかりの私は自分の過去を思い出したのだ。目的もなく、したい事もなく、クラブ活動に打ち込むわけでもなく、勉強に意義を見いだすことも出きない私は自堕落で享楽的な高校生活を送っており、当然成績も最下位だった。
しかし、その数年前からフツーにアメリカンハードロックやブリティッシュロックを聴いていた私はある日、セックスピストルズ に出会ってしまった野田聖子。 出会ってたと言っても街角で偶然にばったり会ったというわけではもちろんない。
当時彼らの言動が音楽雑誌や週刊誌の誌面を賑わせ、ライターである渋谷陽一や森脇美貫夫や大貫憲章が洛陽の紙価を高めていたのである。それらの記事に触発されて買ったピストルズのアルバムは田舎の高校生を驚愕させるには充分であった。
私は労働者階級論やアナーキズム資本論(途中で挫折)やトロツキーシュールレアリズムやらランボーやらなんやらを彼らの思考を知りたいために、と言っても彼らもそんなに深い考えがあったわけではないが、濫読し始めたのである。劣等生がいきなり知識を詰め始め、本は嫌いではなかったが、世界が急速に拡がっていったような気がした。日本史の授業で日本史について好きなことを書きなさいという課題を出され、幸徳秋水無罪論を書き連ねて教師に呼び出されたり、三島由紀夫を授業中に夢中で読んでいたのが見つかり、本気で心配されたこともあった。
1977年以降、世界中の、と言っても先進国だけだが、ピストルズに影響を受けた若者はごまんといたのである。当時の私にとってジョン.ライドンはレノンやポールやミックやキースよりも偉大な教師であった。
(長くなるので続く)

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エンパシー
「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」②
著者はアイルランド系英国人と結婚し、ブライトン(さらば青春の光!)に住む。
元底辺中学校に通う息子とのやりとりが主軸だ。人種差別、EU離脱とリンクする移民問題ジェンダーLGBT運動、PC(ポリティカル.コレクトネス)、貧困などの世界の縮図のような日常をパンクな母ちゃんと息子は共に考えていくのだが、この息子の感性には驚嘆する。一例だが、学校で「エンパシー」とは何か、という試験が出される。empathyは訳すと共感とか感情移入だが、シンパシー(同情)とは違う。彼は「自分で誰かの靴を履いてみること」と答える。これは英語の慣用句でもある。ジャーナリストの千葉敦子の言葉を思い出す。

「知性には様々な働きがあるが、一番重要なのは、会ったこともない、友人でもない他人にエンパシーを感じる能力だろう」
リベラルとPCに関してだが、美達大和のブックレビューの一部を引用させていただく。
「まず、ブレイディという人、思想はリベラルです。が、このリベラルは日本のそれとは異なり、本物のリベラルのことを指します。日本のメディア、政党のリベラルはニセモノリベラルで、ただの「反日左翼」でしかありません。本当のリベラルというのは、異なる相手の主張にも耳を傾け、自己の主張を押しつけません。また、欧米のリベラルというのは、その底に愛国心があり、ひたすら日本を貶(おとし)めようと嘘までついたり、中国や韓国に、事実と違う捏造までして日本の非を訴える、醜く卑しいものでもありません。」
全く賛成。
PCについてだが、もし私の子どもが人種差別発言をしたら、「それはPCに反してるよ」などとは決して言わない。
「肌の色や生まれた場所など、自分でどうしようもできないことを言うのは卑怯だよ」と言うだろう。
PCと卑怯では天と地ほどの差がある、とリベラルでない私は思う。
(続く)

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福砂屋の黄色い紙袋
「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」③
2010年に保守党政権になり、大規模な緊縮財政が始まった。夏休み中、ずっとお腹が空いていたと言うティムはシングルマザーのお母さんと兄弟たちと低所得者団地に住んでいる。クラスメイトにビンボー人とからかわれ、取っ組み合いのケンカをしたことも一度や二度ではない。
制服ボランティアに志願した著者は古くなった制服をミシンがけしてリサイクルに回している。息子は、擦り切れた制服をからかわれているティムのためにミシンがけした制服を渡したい、と言う。それはいいのだが何て渡せばいいのだろう、と二人は思い悩む。
とにかく「学校帰りに、うちに連れておいで」と著者。
月曜日にうちに来たティム、息子とゲームしているうちにティムの兄から電話がかかってきて、すぐに帰らなくてはならなくなった。慌てて息子が制服の入った紙袋を「ティム、これ持って帰る?」と差し出す。

「でも、どうして僕にくれるの?」
著者が所在なく立っていると、息子は言った。
「友だちだから。君は僕の友だちだからだよ」
ティムは「サンクス」と言って受け取るとハイタッチをして出て行った。
「玄関の脇の窓から、シルバーブロンドの小柄な少年が高台にある公営団地に向かって紙袋を揺らしながら坂道を登っていく後ろ姿が見えた。
途中、右手の甲でティムが両目を擦(こす)るような仕草をした。彼が同じことをもう一度繰り返したとき、息子がぽつりと言った。
『ティムも母ちゃんと一緒で花粉症なんだよね。晴れた日はつらそう』

『うん。今日マジで花粉が飛んでるもん。今年で一番ひどいんじゃないかな』」
偶然だが、この本を読んでいた私にも花粉症が出てきた。ちょうど地下鉄に乗っていたので困ったのだった。

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英国の事情
「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」④
福岡の名門校修猷館高校の出身である著者は親が医者や社長のクラスメートたちと違和感を感じていたらしい。
ちなみに「七帝柔道記」に沢田くんという北大生が出てくるが、彼は造士館高校の柔道の練習がどんなに厳しいかおまえは知らんやろ、と言う。佐賀の造士館というのは架空の高校で実際は福岡の修猷館だ。

通学定期代を稼ぐためにバイトをしていた著者は担任に呼び出される。家が貧しいためだと言うと、そんな貧しい家庭が今どきあるわけなかろう、と言われてますます学校から距離を置くようになる。

2018年、グレタさんがスクールストライキとして国会議事堂前で座り込みを続けたことが発端となり、世界中に広がった学生運動が英国にも飛び火した。しかし貧乏な家庭の子はデモに参加できない事情がある。英国では正当でない理由で子どもが学校を欠席すると親が地方自治体に罰金を払わなければならない。元底辺校ではデモに行くのを我慢した子どもたちがたくさんいた。息子も母ちゃんを慮ってデモに行かなかった。このような制度で苦しむのは貧乏な親で、その家庭の子どもたちはいつもそのことを心配している。

著者は息子を子どもとして扱わず、いつも対等に話をしてきたという。本書は読後感が爽やかでいつまでも余韻が残る。
子どもを育てるのは親の生き方なんだな、と改めて思う。

ブレイディみかこ著「いまモリッシーを聴くということ」もスミスファンにも、そうでない人にもお勧めです。

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男気
「神の子」
〜父が語る山本”KID”徳郁の半生〜
山本郁榮

山本”KID”徳郁という名前が知られるようになってからも、プロの格闘家だから、顔が知られているから、という理由で正義感や弱い者いじめを憎む気持ちを押さえたりしない。(中略)
私は徳郁のケンカを怒った記憶がない。なぜかというと、徳郁は強い相手としかやらないし、それも自分からケンカを売ったりはしなかったからだ。ただ困ったのは、ケンカの理由を問いただしても絶対に明かさないことだ。相手のことを悪くいわないので、結局は私と妻が相手の親御さんに謝りに行かなくてはならなかった。マイペースで手のかからない子供だったが、そこのところだけは手を焼いた。
同じように、学校でケンカをして先生に取り押さえられ、『ケンカに加わって逃げた仲間の名前を白状したら許してやる』といわれても絶対に口を割らなかったという。このときは私も呼び出され、徳郁は一週間ほどの停学処分をくらった。
ケンカをするかと思えば、弱い者、小さな者には優しい。今でも妹の聖子にはとにかく優しい。
徳郁は、小学生の頃から理不尽なものや強い者に対して向かっていく姿と、弱い者への優しさという『男気』のようなものを持っていた。」

[parts:eNoztDJkhAMmY3OmVEtz89Q0EyMAHl0DUg==]
男子の一諾
中学生の時「少年ジャンプ」に「スケ番あらし」が連載され、愛読していた。車田正美のデビュー作だ。当時ジャンプの最後のページに漫画家の通信欄というか近況報告が載っていて、車田正美がこう書いていた。
「ファンレターを書いてくれ。全部に返事を出す」
私は返事欲しさにハガキをテキトーに書いて送った。半信半疑だったが、何ヶ月か後に本当にハガキが来た。残念ながら紛失してしまったが内容は覚えている。 印刷ではなく、手書きの緑のボールペンで
「ハガキありがとう。できたら感想も書いてほしかったぜよ」
住所も同じ緑の同じ字体で書いてあった。私は感動した。全国から何千か何万か知らないが、漫画の執筆の間を縫っておそらく腱鞘炎の痛みに耐えながら一枚づつ書いていくのは大変な作業だということは中学生の自分にもわかった。
後年の大ヒット作「リングにかけろ」に男子の一諾という言葉が出てくる。 主人公は右の拳を負傷しており、ボクシングを禁じられているにも拘わらずライバルからの試合の申し込みを受諾する。 顧問の先生が主人公を止めようとすると、女性教師が吉田松陰のエピソードを話し始める。
松陰が宮部鼎蔵たちと東北旅行の約束をする。旅行といっても物見遊山ではなく、阿片戦争に危機感を抱いた松陰の国防施設の視察が目的だった。しかし藩からの通行手形がなかなか降りない。約束の日に間に合わないのでそのまま旅立ちをしてしまう。これは脱藩になり、幕末には半ば形骸化していたとはいえ、重罪だ。のちになぜもう少し待たなかったのだ、と問われた松陰は答える。いま小さなことの約束を守れない人間が将来大きなことを成し遂げられるわけがない、と。
一諾千金という言葉が史記の季布伝にある。 男子がする承諾は、千金にも値するほどの重みがあるという意味から、一度交した約束はどんな場合でも守らなければならないということのたとえだ。

 

 回顧を兼ねた書評
 僕の初海外旅行は26歳の時のインドだった。
 当時往復チケットは年末料金だったので30万した(泣)。
 行く前は椎名誠の「わしもインドで考えた」を熟読。
 インドでは尻の毛まで抜かれるほどぼったくられ、下痢と発熱で散々だったけど、
 それからはリーマンパッカーとして主にアジアをふらふら。
 アフリカは遠すぎて行けなかった。新婚旅行もバックパックでバンコクと香港へ。
 香港では雑居房のチョンキンマンションで二泊し、妻はぐったりしていた。
 バンコクでは安宿と高級ホテルと泊まり歩き、マリオットのプールで
 溺死しそうになったのは今ではいい思い出だ(嘘)。
 旅も好きだが、旅行記も好きだ。
 この本は主にアフリカ旅行のエッセイだが、面白い。
 何よりも文章がうまい。
 奥さんとのなりそめを綴った「追いかけてバルセロナ」なんか疾走感があり、
 一気に読め、感動的でさえある。
 朝の通勤の地下鉄で読んでたけど、日本にいながら気持ちはバックパッカー。
 旅の本もいいけど、また出かけたいなあ。