令和四年八月の投稿


三年振りの一般参列者を入れての広島平和式典。
父の一周忌でもあり、広島選出の岸田総理が挨拶するということもあり、この日が土曜日だということもあり、初めて参列することにした。
早朝から青春18切符で行き、尾道で下車。しかし不注意で列車内にスマホを忘れてしまった。
尾道は全てが絵になるような風景。
しかし写真は撮れず。呉にも途中下車。「大和ミューゼアム」の10分の1スケールの戦艦大和は素晴らしかった。
親父が生きていたら興奮しただろう。写真は撮れず。
広島に一泊。6時前に平和記念公園に行く。時間がわからないので苦労しました。
ものすごい数の制服警官と私服警官。休日にもかかわらず、2メートルごとに配置された市役所職員の皆様。
「平和記念式典挙行中はお静かにお願いします」の横断幕にも関わらず、7時になると日教組全学連中核派、婦人民主クラブなどのアジ演説が公園入口で始まる。
それに対抗して保守派の主張。拡声器を使っての主張、罵声。
川のほとりでは原爆ドームを入れての池上彰さんの生中継撮り。
実は娘は大の池上ファン。土曜日は必ず今日、池上彰の番組ある?と聞き、無い日はガッカリ。
誕生日プレゼントにも池上彰の本を買ってもらっていた。
激写して送ろうと思ったがスマホがないんだった。
8時15分には参列者も警官も立ち止まって黙祷。
非常に厳粛で感動的な時間だったが、それが終わるとすぐにデモ隊が「戦争反対!岸田は出ていけ!」とシュプレヒコールで行進。
あまりの騒ぎに池上彰さんが思わず眉をひそめるほど。
スマホは奇跡的に帰りの列車内で発見。無事確保しました。


スマホ騒動始末記」
三年振りに一般参列者を招待しての広島平和記念式典。被爆した父の一周忌ということもあり、青春18切符を利用して初めて参加することにした。
大阪を早朝に出発し、尾道で途中下車した際にスマホを忘れ、ホームで気がついた。
直前までモバイル充電器で充電していて、充電器はリュックにしまった。
すぐに発車なので座席にスマホがないことを目視して、これもしまっただろうと思い込み、下車してしまった。
座席にはなかったことも駅員に伝えると、確認まで時間がかかるので先に用事を済ませておきますか、ということで二時間ほどしてから駅に戻る。
車内を探したが見つからないという。パソコンで遺失物を探してくれたが、届いてないとのこと。
電車をギリギリまで遅らせて待つが、届出はない。仕方なく呉に向かう。
電車の中で自分のスマホに電話してみれば、と気づき、呉で公衆電話を見つけては電話してみるのだが、呼び出し音が鳴り響くのみ。
しかし、これで電車内にあることを確信する。
20時くらいに広島駅に着き、構内の総合案内所で事情を説明する。ここでもパソコンで遺失物を検索してくれたが、届いてないという。
カプセルホテルの名前は覚えていたので、住所と最寄りの駅を教えてもらう。
翌日、式典に出席してから父が被爆したと推測した場所に行き、再び案内所へ。やはり届いてないという。
しかし彼女は「iPhoneには失くしたスマホを探すというアプリが入ってますが、もしそれをオンにしていたら、位置を確認することができます」
一筋の光明が射したが、その作業は残念ながら案内所ではできないそうだ。
自力で調べようにも他のスマホかパソコンが必要だ。必死に考える。妻に連絡したいが、自分の携帯番号以外覚えていない。
そうだ、今日は土曜日で妻が娘を水泳教室に送り迎えする日だ。大まかな住所を伝えて教室の電話番号を検索してもらう。
案内所は二階にあり、駅には一階のコインロッカーに公衆電話が一台だけある。
教室に電話して何とか妻の携帯電話を教えてもらった(個人情報保護でなかなか教えてもらえない)。
妻に電話して事情を説明する。タブレットでアプリに繋げてみるので30分後にまた電話して、と言われる。
案内所で妻と連絡が取れたことを告げると、携帯ショップで聞くという方法があります、とショップの電話番号を教えてもらった。
再び妻に電話。IDとパスワードがやっとわかったのでまた後で電話して、と。
携帯ショップに電話して、アプリへの繋げ方を教えてもらう。最後に「オンになっていないと探すことはできません」。
妻に電話。最近携帯キャリアを変えたので繋がっていないかもしれない、子どもの携帯とは繋がっているかもしれないのでやってみるそうだ。万事休すか。
何度目かの電話。ついにアプリに繋げることに成功した、と。
スマホが岡山圏内の上りの列車内で移動中だと判明した。
案内所に告げると、その電車は相生と岡山を行ったり来たりしている可能性が高いとのこと。
もう自力で電車内を探すしかない。
今から追いかけようと時刻表をもらい、乗車前に今一度、妻に電話。
すると岡山県瀬戸駅に停止中とのこと。さらに詳細な情報をもらおうと案内所へ。
先ほどの女性は他の人の対応をしていたので、別の女性が対応してくれた。事情を一から説明する。
届出が来ているか調べてみましょう、とパソコンを調べる。やはり無い。時間がかかり、電車が一本遅れた。
電車に乗り、しばらくすると大雨。広島県の白市駅で乗り継ぎのために停車。次の電車までに40分もあるのだが、公衆電話がない。
しかも落雷のために電車を待ち合わせしています、とアナウンス。次の停車駅の糸崎は停車時間が12分ある。そこが勝負だ。公衆電話があればいいが。
糸崎駅に電車が停まるとダッシュで降りた。構内に電話はない。外に出ると、電話ボックスがあった。妻に電話。
「今、スマホはどこらへん?」
タブレットを立ち上げてIDとパスワードを入力するので時間がかかる。時計が無いので発車時間まであと何分かわからないので焦る。
「糸崎に停車中の電車の中」
それが今、乗り継ぎで停止中の電車なのかどうなのか。
とにかく急いで電話を切って乗り込む。三ヶ所、心当たりの座席を調べるが、見つからない。やはりこの電車ではなかったか…。
最後に諦めるために四両の電車の最後尾から歩いて見てみると、途中で既視感のある座席が。トイレが近くにあり、配電盤が横の座席の前にある。
この座席に間違いない。当の座席には青年が座り、向かいには女性が座っている。近くに立ち、様子を見る。
この電車は岡山止まりだが、途中で降りてくれたらいいがと思っていたら、福山で降りた。すかさずその席に座り、祈るようにゆっくりと左の座席の隙間を見る。
ちょうどすっぽりと入っているスマホが見えた。
家族の協力と案内所の親切な対応のおかげで奇跡的にスマホが戻った。スマホ社会の利便性と危うさ、人間万事塞翁が馬。様々なことを教えられた。
そしてある人の「きっとお父様がお返しなさったんでしょうね」の言葉に胸が熱くなった。
岡山県和気町の和気富士

私の祖父母には男ばかり四人の子どもがいました。終戦間際、長男は一人、通信兵として通信基地のある横浜にいました。
祖父は衛生兵として広島連隊に徴収されていたのですが、沖縄戦が始まると祖母は「日本は敗ける。どうせ死ぬなら家族で死にたい」と米子から広島へ移住を決意したのです。
10歳だった次男の父が先に一人で広島に行きました。祖母と三男と四男が広島に来たのはその一か月後の8月3日のことでした。
6日、広島市広瀬町の祈祷所に仮住まいしていた家族は父が生後半年の弟を膝に乗せてあやしていた時に爆風で弟が吹き飛ばされたそうです。
三男も倒壊した家屋の下敷きになり亡くなりました。瓦礫から這い出した父は祖父母を探し回り、市内の浅野家の墓地がある山で奇跡的に再会したそうです。
今年初めて広島平和記念式典に参加しました。
その時は父が被爆したという場所に行ってみました。
その6日後、再び広島を訪れ、祖父が二人の子どもを納めた、と言っても遺骨などはありませんから、名前だけを納めたのではないでしょうか。
そうと思われる寺(というのは子どもの戸籍には被爆地ではない死亡地の住所が記載されていて、 そこには寺院が一軒しかありませんでしたから)に迷いながらも行ってみましたが、既に廃寺になっていました。
浅野山にも行ってみました。何も収穫はありませんでしたが、広島市内を歩き回り、感慨深いものがありました。
祖父母も父も既にこの世にいません。もっと話をしておけばよかったと後悔するばかりです。
結果的に二人のわが子を失ってしまったその時の祖母の行動を愚かだったとは決して思いません。
それどころか崇高な家族愛だったと私は思うのです。ですからこの歌を聴くたびに祖父母や父や亡くなった叔父たちのことを思い出すのです。

管理人マーキュリーマークからの伝言
諸事情から鑑みて一部を抜粋した上で転載しました。

 

 回顧を兼ねた書評
 僕の初海外旅行は26歳の時のインドだった。
 当時往復チケットは年末料金だったので30万した(泣)。
 行く前は椎名誠の「わしもインドで考えた」を熟読。
 インドでは尻の毛まで抜かれるほどぼったくられ、下痢と発熱で散々だったけど、
 それからはリーマンパッカーとして主にアジアをふらふら。
 アフリカは遠すぎて行けなかった。新婚旅行もバックパックでバンコクと香港へ。
 香港では雑居房のチョンキンマンションで二泊し、妻はぐったりしていた。
 バンコクでは安宿と高級ホテルと泊まり歩き、マリオットのプールで
 溺死しそうになったのは今ではいい思い出だ(嘘)。
 旅も好きだが、旅行記も好きだ。
 この本は主にアフリカ旅行のエッセイだが、面白い。
 何よりも文章がうまい。
 奥さんとのなりそめを綴った「追いかけてバルセロナ」なんか疾走感があり、
 一気に読め、感動的でさえある。
 朝の通勤の地下鉄で読んでたけど、日本にいながら気持ちはバックパッカー。
 旅の本もいいけど、また出かけたいなあ。