令和四年十月の投稿

ターザン山本氏の父のこと(2017年4月)
先日初めて義母と小学生の甥と三人で義母の生家があった岩国に行った。
当初は私ではなく、妻と娘が行く予定だったのだが、娘のいきなりのインフルエンザで予約していた新幹線が無駄になるからと急遽私が赴くことになった。
生家の久利家は島根県大田市久利町が祖。国人領主で戦国時代初期の石見銀山支配にもかかわっていた。
義母の父と高名な歴史学者奈良本辰也先生が中高生のときに同級生だったこともあり(大学も同じだった)、久利家の古文書調査にも加わっていた。
大学の後輩であり、日本中世史が専門の河音能平(よしやす)大阪市立大学教授に久利古文書を調べさせていただけないか、という奈良本先生の依頼の手紙を義母が保管していた。
岩国徴古館に古文書を貸与しており、貴重な資料なので東大の編纂室が調査したいとの由。その前に墓参を兼ねて拝見させてもらうことにしたのだ。
徴古館では若き気鋭の学芸員である松岡さんに丁寧な説明を受けて大変勉強になった。
岩国出身の著名人と言えば私にとって真っ先に思い浮かぶのが元「週刊プロレス」編集長であり、のちには「格闘技通信」の編集長も歴任したスポーツライターターザン山本氏だ。
このことを岩国の写真と共にフェイスブックにアップしたところ、御本人が見られてシェアしていただいた。
帰阪後、さっそくターザン氏の著書を読んでみるとこんな記述があり、思わず目を見張った。
「1946年、私は基地の街である山口県岩国市に生まれた。4人兄弟の長男である。父は帝国人絹(テイジン)の工場労働者で、家はお世辞にも裕福とは言えなかった。
毎日のごはんは瀬戸内で取れるアジなどの大衆魚に野菜はジャガイモが中心、そして味噌汁くらいのもの。
味噌汁の鍋に1つ入る卵が自分のお椀にどれだけたくさん入るのかが私たち兄弟のいつもの楽しみだった。
尋常小学校しか出ていなかった父は、少しでも給料が上がるようにと家で昇進試験のための勉強をしていたが、しょせんは職工、せいぜい班長止まりでたいした出世はできなかった。
いくら勉強したところで、都会から来る大学出の幹部社員にかなうわけがない。父は、せめて長男である私だけは大学に行かせようと、相当無理して働いたようだ。」
驚いたのは義母の父は岩国のテイジンの工場長をしていたと聞いていたからだ。義母に電話して確認してみると、かなりの確率でその時期が重なることがわかった。
不思議な縁である。興味に駆られて氏のブログを検索するとこんな文章を見つけた。
「夢の世界は孤独そのもの。ほとんど絶対的孤独な自分しか現れてこない。それから2時間後だった。
10時過ぎか。家の電話が鳴った。誰かと思ったら故郷(山口県岩国市)の姉からである。
 そばには妹もいた。姉は私より11歳上。妹は二つした。姉は急に「おじいちゃん(私の父のこと)はねえ・・・」と話し始めた。
 父はテイジン(帝国人絹)に職工として働いていた。戦後、そのテイジンに九州の宮崎や鹿児島から中学を卒業した人たちが、岩国の工場に就職してきた。
 その連中は会社の寮に住んでいたのだが、その食堂の料理が物足りないというと、父は彼らを家に招いて腹いっぱい御飯を食べさせていたというのだ。
 へえ~、初めて聞いたよ。さらにお金がないといったらお金も貸していた。その中には返さないものもいた。
 すると父は仕方がないよとそのままにした。また正月、クニ(故郷)に事情があって帰れないものがいると、その人間を家に招いて正月料理を御馳走した。
 結局、若いものの面倒見がすごくよかったのだ。だから父が定年退職する時は下の者(若い人)から盛大なパーティーをやってもらったそうだ。
 だからさあ、あんた(私)もおじいちゃんと同じように、人に何かを施す側にまわりなさいと注意してきたのだ。
 そうか私は父とは反対に“もらう”側になっている。しかしよく姉もわざわざそんなことを妹といっしょになって、朝から電話してくるよな。
 750円しか手持ちのお金がないのにそれは無理だよ。でも父は偉いよ。私にそのマネをしろといってもねえ。
 またこうも言った。父が亡くなったのは平成9年11月6日。母は平成14年7月8日。共に91歳だった。
 だから8日と6日には必ず花を買ってきて仏壇にそれを供えろというのだ。ハイ、わかったよ。
 あれ、今日がその8日ではないか? 父と母が私を守ってくれているのかもしれない。ありがとうである。」
ターザン氏と父君のことがよくわかる文章ではないか。これをメールで義母に送った。翌日義母からいかにも感激した口調で電話があった。
彼女の父も面倒見が良く、遠方から赴任してきたテイジンの部下をよく自宅に招いてご馳走していたそうだ。
友だちは大切にしなさい、というのが口癖で彼女の友人を自宅に招くときも決して偉そうにしてはいけないと言い含めていたらしい。
義母は氏の父君と自分の父親のことを封建的だが情の厚い岩国人として、また工場長と工場労働者としての立場は違えど、人を慮る人間としての大きさを感じ取って感激したらしい。
もちろん私も全く同じ気持ちだった。この二人は果たしてどこかで出会ったのだろうか。
いや、そんなことよりも私は会ったこともないこの二人のことを既に深い尊敬を持って感じているのだ。
管理人マーキュリーマークからの伝言

平成29年四月に行われた投稿が先月、フェイスブック上で再投稿されましたので転載します。



朝6時半
丼池ストリート。昼間は繊維の買い付けでインド人が闊歩し、インド人街という人もいます。

本町で行列のできるうどん屋さんがあると聞き、一番乗りで行きました。

7時前には続々と行列が出来ていきました。
二番手の人に聞くと宝塚から毎週のように来ていると言います。

おすすめを聞いたら、全てがおすすめとのこと。

「typoon」900円。
柚子、クミンシード、パクチーが食べているうちに渾然一体となり、味変となっていきます。豚肉にもしっかりと味がついています。
出汁はこのうどんに合わせてベトナムのフォーに似せているようで薄味ですが、非常にマッチしています。
またトッピングのコロッケが美味しい!
店内は立ち食いで10席ほどなので回転は早いです。

今回のうどんは創作落語みたいなもので、クオリティが高かったので古典落語もかなりのものだと期待します。次回はきつねやわかめうどんを食べてみたいです。

 

 回顧を兼ねた書評
 僕の初海外旅行は26歳の時のインドだった。
 当時往復チケットは年末料金だったので30万した(泣)。
 行く前は椎名誠の「わしもインドで考えた」を熟読。
 インドでは尻の毛まで抜かれるほどぼったくられ、下痢と発熱で散々だったけど、
 それからはリーマンパッカーとして主にアジアをふらふら。
 アフリカは遠すぎて行けなかった。新婚旅行もバックパックでバンコクと香港へ。
 香港では雑居房のチョンキンマンションで二泊し、妻はぐったりしていた。
 バンコクでは安宿と高級ホテルと泊まり歩き、マリオットのプールで
 溺死しそうになったのは今ではいい思い出だ(嘘)。
 旅も好きだが、旅行記も好きだ。
 この本は主にアフリカ旅行のエッセイだが、面白い。
 何よりも文章がうまい。
 奥さんとのなりそめを綴った「追いかけてバルセロナ」なんか疾走感があり、
 一気に読め、感動的でさえある。
 朝の通勤の地下鉄で読んでたけど、日本にいながら気持ちはバックパッカー。
 旅の本もいいけど、また出かけたいなあ。